PR誌『みすず』に連載中から愛読していた宮田昇さんの文章が『図書館に通う』という本にまとまった。「当世『公立無料貸本屋』事情」というサブタイトルがついている。
著者は私のちょうど十歳上。戦後まもなく就職した早川書房からタトル商会に移り、米軍占領下にはじまる混乱した著作権問題に素手でとりくみつづけた方である。そのあたりのことは私もすでに『翻訳権の戦後史』や『戦後「翻訳」風雲録』などの著書で知っていた。その出版界の大先達が、いまや私同様、ひとりの退職老人として公立図書館のヘビーユーザーと化していたとはね。
ほどなく消えてゆく身で、手持ちの本をこれ以上ふやしたくない。経済的な事情もまったくないわけではないらしい。退職老人の後輩としては、そうした著者のつぶやきの一つひとつが身にしみる。
仕事をやめた宮田さんは、暇にまかせて、じぶんの街の図書館で高村薫や宮部みゆきや桐野夏生の作品をまとめて読み、これまで「私が読むことのなかった多くの日本の作家の作品が、仕事として読んできた海外のエンターテインメントに遜色ないこと、なかにはそれより抜きん出ているものがあること」を知っておどろく。おかげで新しい「老後の楽しみ」ができた。そんな人間から見ると、出版人や作家が図書館を「公立無料貸本屋」としてさげすみ批判する昨今の風潮がどうしても納得できない。いったい公立無料貸本屋のどこがいけないというのか。
この本で私もはじめて知ったのだが、宮田さんには早川書房にはいるまえ、暮らしに窮して小さな貸本屋をやっていた一時期があるらしい。子ども向けに世界名作のリライトを手がけたこともあるのだとか。そんな事情もあって、手塚治虫の新作にむらがり、リライトされた『巌窟王』に熱中する子どもたち(私もそのひとり)が、いつもまわりにいた。氏が「無料貸本屋」という揶揄まじりの批判に反発するのも、ひとつにはそうした経験があったからなのだろう。
しかし図書館を無料貸本屋として利用するうちに、宮田さんにも、しだいに今日の公共図書館が抱える矛盾が見えてくる。
たとえば予約待ちの時間の長さ。東野圭吾の『マスカレード・ホテル』は予約後八か月たって、まだ64人待ち、おなじく池井戸潤の『下町ロケット』は113人待ち――。
宮田さんの「わが街」は鎌倉市(人口は17万人)らしいが、もっと規模の大きな地域図書館になると、事態はさらにすさまじいことになっている。なにせ私が暮らすさいたま市(123万人)の市立図書館ネットワークでは、『マスカレード・ホテル』はいまだに953人待ち、『下町ロケット』は836人待ちなのだから。前者は刊行後一年九か月、後者は二年七か月。ここまでくれば、どう考えても公立無料図書館は深刻な機能不全状態におちいったと判断せざるをえない。現に私よりもはるかに環境にめぐまれている宮田さんですら、こうのべている。
「私の場合、予約待ちが多少あっても、分量のあるものは待つことにしている。この歳になると、本は増やしたくないし出費は抑えたい。だが前作を読み、次作への欲求もだしがたく、文庫が出ているものはつい買ってしまう。どうしても読みたい新刊は、単行本で買ってしまうのは『蜩ノ記』で明らかである。(略)もっとも、一部は私のように本を買う例もあるだろうが、ほとんどは、あまりにも長い予約待ちに読書意欲をそがれてしまっているのではないか」
しかも長い長い予約待ちをへて、やっと目的の本を手にしたとしても、「そのときは背が崩れ、しみと垢にまみれた汚い本になっていることはまちがいない」と宮田さん。その証拠に、すでに図書館の棚におさまった往年の人気作にしても、しばしばそれが「あまりにも汚いのに唖然」とさせられる。それでも「しばらく手袋をはめ、趣味として読みはじめた図書館から借りた本の頁をめくっていた」が、もうやめた。文庫本が出ている著者のものはそちらを買うようにしているというのだ。
私は宮田さんとちがい、これまで一貫して公共図書館の過度の「無料貸本屋」化をおおっぴらに批判してきた。この種の批判は2000年にはじまったと宮田さんは本書の冒頭でのべているが、その二年まえ、私は『図書館雑誌』によせた「市民図書館という理想のゆくえ」(『だれのための電子図書館』所収)という文章で「なにが公共図書館だよ、ただの貸本屋じゃないの」と批判して、図書館員諸氏の怒りを買ったおぼえがある。批判の理由はさきの出版人や作家諸氏とはまったくことなる。それでも字面だけで見れば、私もまた宮田さんの仮想敵(?)のひとりと思われてもしかたあるまい。
しかし、にもかかわらず私は『みすず』連載中から、宮田さんの「公共無料貸本屋」肯定論に反感をもったことはいちどもないのである。それどころか、「そうそう、そのとおり」と、いつも共感して読ませてもらった。近所の図書館について熱心に語る人は大勢いる。でも私をふくめて、昨今の図書館における予約待ちのあまりの増加ぶりや蔵書の汚さについて、ここまで具体的に語った人はいなかった。そのことだけをとっても、これは書かれるべくして書かれた貴重な本だといっていい。
しつこいようだけれど、いまも私は、原理的にも現実的にも、公共図書館を無料貸本屋の枠に押しこめることにはムリがあると考えている。私の街でいえば、モノによっては、すでに一千人を越えはじめた予約待ちの現状が、図書館を無料貸本屋化することのむずかしさを如実に示している。
――と私ならそう考える。でも宮田さんはちがう。なかなかあきらめない。
かつて宮田さんは、アメリカ出版界の「ペーパーバック革命」に感心し、日本の「文庫本革命」もできることならこの線ですすんでいってほしいと期待していた。しかし、この期待が実現されることはついになかった。
「欧米の出版流通、読書を変えたペーパーバック革命が、日本でなぜ起きなかったのか。(略)単行本は単行本として長く大事に売りつづけ、マス・ペーパーバックは読み捨て本的性格をもたせ、独自の流通でできるかぎり安く提供する。それが図書館とおなじく、どれほど読者層を広げたか、計り知れないものがある。(略)もう遅いかもしれないが、このさい、(日本の出版社も)文庫本を少しでも早く出すことを考えないと、Eブックス時代の対応にも困るのではないだろうか。私には、その予感がしてならない」
すなわち、①もし日本の出版社が新刊本の文庫化(低価格化)の時期を思い切って早めれば、図書館の予約待ちの列にならぶ人びとの多くはかならず文庫本に流れる。
②そうなれば短期的な人気本(読み捨て本)の複本購入にも歯止めがかかり、高価格のハードカバー(かたい本)に予算を振りむける余裕が生まれる。
③ひいてはそれが、この国の出版業界に「一気に売るマス販売」と「長く大事に売りつづける単行本出版」との程よいバランスをよみがえらせるきっかけになる――。
大づかみにいってしまえば、どうやらこんなあたりが、なかなか「あきらめない」宮田さんがいま思いえがいている突破の方向らしいのだ。
しかし宮田さんがいかに期待しようとも、いつまでも石橋を叩くだけで、いっこうに渡ろうとしない日本の図書館界や出版業界の習性を考えれば、この方向で現在の隘路が突破される可能性があるとは、とても思えない。Eブックス時代になろうとなるまいと、なにひとつ変わらない。そして「理想的な公立無料貸本屋」という図書館の夢だけがあとにのこされる。だとしたら、図書館の無料貸本屋化を支持する宮田さんと、それを小泉内閣以来の新自由主義的な行政改革(いま需要の多い本だけがいい本だ)による「公共図書館という夢」の破壊を批判する私とのあいだに、はたしてどれほどのちがいがあるだろうか。
「少なくとも『公立無料貸本屋』としての図書館を貶め、その予算を地方公共団体が減らすのに力を貸さないでほしいというのが、図書館を利用する後期高齢者の願いである」という宮田さんの結論に、私は全面的に賛成する。
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