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まちとしょテラソで未来の図書館を考えてみた

エントランスを入ると白い本棚が整然と立ち並んでいる。それほど広くはないが、天井の高さが開放的で清潔感のある空間だ。入ってすぐのカウンターにいた女性スタッフが気持ちのよいトーンで応対してくれた。何でも「まちじゅう図書館」というプロジェクトをはじめたらしい。町の酒蔵や銀行、カフェなんかに本が置かれているのだとか。

興味深いけれども、まずは館内、館内。といっても10分もあれば見て回れるぐらいの広さだけど…。なるほどiMacが並ぶブラウジングコーナーに、妖怪や地元の絵本作家の選書棚、カーペットが敷かれたキッズスペース、本やグッズの売り場、あそこは飲食ができるテーブル。へぇ、館内で飲んだり食べたりしていいんだ。

あれ?話し声が聞こえるし、子どもたちがはしゃいでるな。ふつうなら注意されるはずなんだけど…。まぁいいか。そういえば、館内にうっすらとヒーリングミュージックが流れてるな——

とんがった三角の屋根が特徴的な、小布施町立図書館まちとしょテラソのエントランス。

小布施町立図書館まちとしょテラソを訪れたときに目にしたこの風景は、2009年のオープン以来、注目を集めてきた図書館にしては正直いって地味な印象でした。ただ、公共図書館の真上にあるメディアセブンという社会教育施設で働くぼくには、まちとしょテラソの日常の風景がとても新鮮に感じられ、先進的な図書館像に映りました。その先進性の所在を、まちとしょテラソの使われ方から紐解いてみましょう。

情報をサービスする図書館

まちとしょテラソのそもそものはじまりは、町役場の一角にあった図書室をリニューアルしたいという町民の要望でした。ただ、計画のはじまった当初から、本の貸出をする施設ではなく、まちづくりのための図書館として構想されていました。そして町役場での議論や公聴会を重ねたあと、2007年に発表された基本計画では、「学びの場」「子育ての場」「交流の場」「情報発信の場」を四本柱にすえた「交流と創造を楽しむ、文化の拠点」という基本方針が打ち出されます。

開館前には町内外の有志からなる図書館建設運営委員会の一員でもあった花井裕一郎前館長が、この基本方針を受けて提起したのが「情報」というキーワードでした。館長就任にあたり1954年に制定された図書館法を紐解き、その第一章第三条に触発され、図書館のサービスが本に限定されるものではないことに気づいたそうです。

本ではない情報。本には書かれない町の暮らしや風習の記録、まちづくりの軌跡といった情報。イベントや講演会での経験をとおして得られる情報。この情報という視点から組み立てられたまちとしょテラソのサービスは、従来の図書館の枠組みを超えています。

NIIによる「寳生太夫勧進能絵巻デジタルビューワー」も館内で自由に閲覧できる。

たとえば国立情報学研究所(NII)が開発した連想検索「想」との連携による「まちとしょテラソ蔵書検索システム」の導入、小布施に住む人たちのインタビューを収めたアーカイブス「小布施人百選」。古地図やイラストマップを現在の地図に重ね合わせた街歩きサポートアプリ「小布施ちずぶらり」や町内ミュージアム所蔵作品のデジタル化などをとおした地域や他機関との連携。これらは、町の図書館の域をはるかに超える取り組みといえます。また、職員が講師を務める「テラソ美術部」やアーティストを招聘した「美場テラソ」など、美術館のアウトリーチプログラムのような取り組みも、従来の図書館では考えにくいサービスでしょう。

開館からたった5年のあいだに、職員やボランティア、有志の町民たちとともにこのような先進的なサービスが実現されたことは、おどろくべきことです。

多様なニーズが共存する場所

それ以上に僕が着目したのは空間の使われ方でした。「テラソ美術部」や「美場テラソ」といった活動は、本棚の並ぶスペースで行われることもしばしばで、仮装をした老若男女が本棚のあいだを練り歩いたこともあるのだとか。そのほかお話し会や紙芝居なども、本棚の並ぶスペースととなりあったキッズスペースで開催されます。従来の図書館であれば小部屋で行われるような活動も、まちとしょテラソではオープンなスペースで行われます。

それもそのはずで、建築家・古谷誠章さんの手によるまちとしょテラソは、大きなワンルームのような空間構成になっているのです。ひとつだけちいさな部屋はありますが、そこも半透明の仕切りがほどこされていて、部屋のなかにいる人や活動の気配が感じられるようになっています。そのため、まちとしょテラソでは基本的に、空間で活動を分節することができません。ここはおしゃべりしていいところ、ここは静かに本を読むところというように空間とともに活動を切り分けるのではなく、あらゆる活動が混在するようにしつらえられているのです。

本棚が整然と並ぶ天井の高い空間。

カーぺットの敷かれたキッズスペース。

このような環境では静かにすることをルールにしがちですし、ぼく自身も職務においては、そのようにするでしょう。きわめて日本的な公共意識の表れですが、静かにしていれば迷惑はかけないし、迷惑を被ることもありませんから、おおきな間違いはありません。

しかし、 まちとしょテラソではこのようなルールは決められていません。ぼくが目にしたように、おしゃべりをする人も、はしゃいで遊ぶ子もいていいのです。もちろん静かに本を読んでもいいし、勉強してもかまいません。

そこでは、それぞれが思い思いに過ごしており、まさに花井前館長がつくりたかった「たまり場」となっています。でも、逆にいえば、たがいに対立しかねないニーズが共存している場所ともいえますし、それを調整しなければならないのは大変な労力だと思います。しかし、まちとしょテラソでは、それが自律的に行われているといいます。

それを可能にするのが「タイムシェアリング」という考え方です。あるときはイベントが行われているからうるさくなる、あるときは館内が静かになる、またあるときは子どもたちがたくさん訪れてにぎやかになる…というように、そのときどきに集まる人たちのニーズによって場の使われ方の大勢が決まります。それを尊重できる人は館内にいればいいし、相容れないならべつの時間に訪れればいい。施設運営者がルールを決めてニーズを制限したり、調整したりするのではなく、利用者相互の自律的な調整が行われているのです。

ルールに規定されない公共性のあり方

地味なことだと思うかもしれませんが、だれもが納得する公約数的なルールを決めるのではなく、たがいに調整し合い、個々のニーズを無理なく満たしていくことはとても洗練された公共性のあり方です。ぼくをふくめた多くのパブリックスペースを担う人たちが思い描く理想のひとつでしょう。まちとしょテラソの様子をみていると、そんな理想的な公共性の足がかりが感じられました。

とはいえ、これを実行しようとするのは並大抵のことではありません。一般的には図書館は本を借りる場所、静かに本を読む場所という思い込みがあります。それを突然、本ではなく情報といわれてもピンとはきません。ましてや、利用者がうるさくしてもいいどころか、職員が率先して騒々しい事業を行うなんてけしからんと思われても無理はありません。

事実、ふつうの図書館をもとめる声もあるそうです。その声は、町民からはもちろん、オープン当初は職員からも無言のうちに寄せられていたといいます。司書課程で図書館かくあるべしという理念を学んできた専門職の方たちからすれば、常識をくつがされたと感じたのかもしれません。それでも花井前館長は、職員たちの話に耳を傾け、おたがいに納得するまで対話をつづけたといいます。

その結果、職員のあいだに、自分たちがまちとしょテラソを楽しみ、 使い方を発見して実装し、そしてそれを利用者に伝えていくというサービス精神が芽生えたそうです。それが自分のパーソナリティを打ち出した「もてなし」を行うことにつながり、いつしかスタッフ一人ひとりの顔がみえる選書や事業が企画されるようになりました。

妖怪好きの職員が選書した妖怪関連書籍100冊。

そして、それらサービスや事業をじっさいに目の当たりに体験してもらうことが、利用者となる町民との何よりもの対話となったようです。それを歓迎した住民もいれば、とまどった住民もいたことでしょう。しかし、地道な対話をつづけるなかで、住民それぞれがまちとしょテラソの使い方を見出し、じっさいに使っているなかで現在の姿が徐々にかたちづくられました。

コミュニティとしての図書館

まちとしょテラソに見出した先進性は、このプロセスにあります。一方的なサービスではなく、その場にかかわるすべての人たちのニーズのあつまりからサービスが決定されていくプロセスこそ、先進的なのです。

このことから思い起こされるのは、せんだいメディアテークなどの文化施設の計画に携わる桂英史氏が著書『人間交際術〜コミュニティ・デザインのための情報学入門』(平凡社新書)で提示した「コミュニティとしての図書館」という考え方です。貸出サービスを追求する従来の図書館を「コミュニティのための図書館」と表現した上で、それとは異なる「コミュニティとしての図書館」が、これからの図書館像として次のように提起されます。

「コミュニティとしての図書館」とは、図書館そのものがコミュニティのモデルとなるような図書館のことです。ここに新しい人間交際のかたちが表現されていれば、住んでいる人たちはこれまでとは異なる連帯感と帰属意識が生まれるかもしれないのです。

これまでみてきた小布施のまちとしょテラソは、この「コミュニティとしての図書館」を地でいっているといえます。コミュニティとは多様な人たちの集まりであり、それゆえにたがいに対立しかねない利害やニーズの集合体です。そんな生々しいニーズの多様性がまちとしょテラソにはみられ、そして自律的に調整されているのです。

それらニーズはときに事業に表れ、ときに選書に表れ、ときに図書館の使われ方に表れます。それは職員と利用者という立場の違いを超えて、まちとしょテラソを「こう使いたい」という個々人の素朴な思いの表れです。その表れてくるニーズをルールによって封じ込めるのではなく、一つ一つの思いに向き合いながら、相互に調整し合うことこそが「コミュニティとしての図書館」なのでしょう。

小布施町のちいさな図書館、まちとしょテラソの日常の風景からは、そんな図書館の未来を垣間見ることができました。その未来は、そこにかかわる人たちの素朴な思いに向き合うことからはじまるのかもしれません。

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