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私が本を読まなくなった理由

あるとき、出版社勤務の人と雑談していたら、「最近どんな本を読みましたか?」と尋ねられました。その人とは初対面だったので、無難な共通の話題として、身近なはずの読書のことを持ち出したのでしょう。しかし、情けないことに私は、この質問に答えられませんでした。自分では、かなり本を読んでいるつもりだったのに、実際にはここ数年、急激に本を読むことが少なくなっていました。この「事件」のおかげで、あらためてそれに気づいて愕然としました。

このひどい失態のせいで、その出版社からの翻訳依頼が……いや、そのときはそんな相談をしていたわけではありませんが、いずれにしても、あまり良い印象は持たなかっただろうとは思います。その反省を兼ねて、私がなぜ本を読まなくなったのかについて考えてみます。

本を置く場所がない

昔は、毎日のように本屋に立ち寄って、ほとんど毎日のように本を買って読んでいました。あまり高尚な本ではなくて、趣味や仕事で興味のある分野の専門書や実用書が中心で、その他に小説や随筆も多少は読みました。私の家では、書斎というと大げさですが、6畳の部屋を自分用に占有して、その部屋の壁の一つの面全部を作り付けの本棚にしています。この家に住み始めたとき、これだけのスペースがあれば、少々本が増えても当分は大丈夫だと思いました。しかし、当然ながら、何年も続けてどんどん本を買っているうちに、満杯になります。

満杯になるのと前後して、会社員が本業である私は、数年間、遠方に単身赴任していた時期があります。単身赴任先でも、やはり本を買っていました。やがて自宅に戻ってきたときには、持ち帰った本を自宅の本棚に入れるスペースはありません。部屋の床に、引越荷物の段ボール箱が積み上げられた状態になりました。

古本屋に売るのは面倒だし、本を捨てるのは何となく抵抗があります。最近は、「自炊」で本棚のスペースを空けるという方法もありますが、それはそれで手間がかかるので気が進みません。とにかく、めんどくさがりなのです。満杯の本棚と、床に並ぶ段ボール箱を見て、これ以上本を増やさないようにしようと思いました。「本を買うのをやめると決意した」というほど大げさなものではなく、なんとなく「置く場所がなくなって困ったな」という程度のことです。

本の重みで床が抜けるという話が「マガジン航」にも掲載されていますが(注1)、我が家の床が抜けてしまうのは困るので、私は、絶対に床に本を積み上げないことにしています。他人から見れば、本を入れた段ボール箱が床に置いてあるのだから、あまり変わらないだろうとおっしゃるかもしれませんが、私としては「床に本を積み上げたら負け」だと思っています。床に本を積み上げないことについては、強固な意志を持って守り続けています。

そのような状態で、全く本を買わなくなったわけではありませんが、購入のペースは非常に落ちました。1ヶ月に1冊くらいの感じでしょうか。最近買った本は、すでに本棚に立ててある本の上のすき間に横向きに押し込んだり、机の上に置いたりしています。机の上に置いてある本は、積み上がって収拾がつかなくなる前に、整理しなければならないと思っています。

(注1)「本で床は抜けるのか」「続・本で床は抜けるのか」を参照。

情報の伝達経路が変わった

さて、私が本をあまり読まなくなったのは、本棚が満杯になったという以外にも、いくつかの要因がありそうです。

以前は、仕事が終わった後、通勤経路上にある本屋に立ち寄って本を物色していました。しかし、何年か前に、いつも利用していた勤務先近くの書店が閉店しました。書店がなくなって本をさがす機会が減ったというのも、理由の一つと言えるでしょう。

堺屋さんの訳書『ケヴィン・ケリー著作集Ⅰ』はフリーの電子書籍、有料の紙の本のどちらでも読める。

2008年に、私は翻訳を始めました(注2)。最初の頃は、週1回くらいのペースで翻訳を発表することを目標としていたので、自由時間のほぼ全部を翻訳に使っていました。必然的に、本を読む時間がなくなりました。諸般の事情で、今では翻訳を発表するペースは月1回程度になりましたが、それで増えたはずの自由時間は、ツイッターやフェイスブックなどに消費してしまって、やはり本を読む時間はわずかです。

読みたい本の出版が少なくなったという気がします。これはデータに基づくものではなくて単なる印象であり、また、分野にもよるかもしれませんが……。たとえば、近頃興味を持っている客船クルーズについては、1989年頃、日本の船会社の客船が次々と就航して「クルーズ元年」などと言われ、その後しばらくは、業界関係者や作家によるクルーズ解説書や乗船記がいろいろと出版されました。しかし、最近は、客船クルーズに関する新しい本があまり出版されません。しいて言えば、自費出版による個人の世界一周クルーズ旅行記が散見される程度です。

趣味的分野に関して、もう一つ考えられることがあります。以前は、何らかの知識を得るために本を読んでいましたが、今ではネットを通じて情報収集できるようになりました。本を読む必要がなくなったということです。専門的研究は別として、素人が概要を知るのであれば、ネットの情報でも十分役に立つことが多いと思います。さらに、情報を提供する側から見ても、本を書くかわりに、ブログなどネット媒体で情報を提供することができるようになりました。

What Technology Wantsの原書はKindle版でも入手可。

ケヴィン・ケリーが2010年にWhat Technology Wants(注3)を出版したときに、自分が執筆する紙の本はこれが最後かもしれない、と言っています(注4)。このように執筆者側にも、紙の本をやめて、ネット媒体や電子出版に移行する傾向がありそうです。先ほど例に挙げた客船クルーズの世界でも、船会社は、広報手段として、書籍ではなくウェブサイトやブログを利用しているようです。

(注2)雑誌「WIRED」創刊編集長ケヴィン・ケリーが、自身のブログ「The Technium」でCreative Commonsライセンス(CC BY-NC-SA)により公開したエッセイを翻訳して、「七左衛門のメモ帳」 で発表しています。

(注3)What Technology Wantsの日本語版は、服部桂さんの翻訳で、みすず書房から2013年6月に出版されるようです。[参考: みすず書房近刊情報]

(注4)The Technium: Fresh Physical Books

本棚と本の今後

それほど遠くない将来、定年退職してたっぷりと時間ができたら、満杯の本棚を整理してスペースを空けて、再び多くの本を読むようになるかもしれません。今からX年後のそのとき、私の本棚は現状とあまり変わらないはずですが、その一方で、本はどうなっているでしょうか? 紙の本と電子書籍が共存共栄しているのか、それとも、紙の本が衰退して電子書籍が主流になっているのか。もしかしたら、紙でも電子でもない全く新しい形態が出現しているかもしれません。

『マニフェスト 本の未来』第22章(「誇張と倒錯」)でバラ・バキリ(注5)が述べているように「本の『未来』とはその形式に関するものではないし、読書の方法でもない」「本の未来は、個々の読者と物語との間のつながりを拡大することにある。本という経験は、もはやページの中や読者の心の中だけに限定される必要はない」とすれば、紙だとか電子だとか形式を問題にすることは、あまり意味がなさそうです。そこに何が書いてあるか、それを読んでどのような体験が得られるか、ということが重要なのだと思います。

私が定年を迎えるX年後には、どのような形式でも、読む価値のあるコンテンツが多数存在し、さらに次々と新しく生み出されている状況であってほしいものです。

(注5)『マニフェスト 本の未来』第22章の翻訳を分担しています。

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