サイトアイコン マガジン航[kɔː]

第4回 持ち主を亡くした本はどこへ行くのか

原稿書きを長時間やり過ぎると首がちぎれそうになるほど痛くなる。そんなときは決まって、近所の整体院に行くことにしている。約一時間、足腰肩首と足の裏でぎゅーっと踏まれ、首や腰を捻られバキバキと関節を鳴らしてもらうと、さあまたがんばろうという気になる。一人で切り盛りしている店なので、指名するまでもなく整体師はいつもMさんだ。5年ぐらい通っているので、すっかり顔なじみだし、施術中は必ず話に花が咲く。

7月だっただろうか。Mさんは珍しく僕に相談を持ちかけてきたことがある。それは、施術後、腰や首のこりが軽減され、身軽になったときのことだった。

「祖父の遺した蔵書を処分したいのですが、信用できる古本屋、知りませんか」

聞けば、だいぶ前に亡くなったお祖父さまの蔵書なのだという。

「祖父は詩人で大学教員もしていました。勤務した大学に蔵書を一部寄付しましたがまだまだ沢山あるんです」

本にまつわることを取材していると、このように身近な人から思わぬ事実を知らされることがある。Mさんもその一人なのだった。故人の書棚というものににわかに好奇心を抱いた僕は、Mさんにいくつか質問をぶつけた。

「書棚には何冊あるんですか」
「数えたことはありませんが、5000冊ぐらいはあるでしょうか。だいたいが人文書、古びて紙が茶色くなっている本ばかりです。戦前に発行された旧仮名遣いの万葉集とかを持っていまして、中学生のとき、それを読むよう祖父によく言われたものです。祖父の蔵書がどのぐらいの価値があるのか、僕にはよくわかりません。だけどとにかく祖父の蔵書を捨てたいと思っているんです」

Mさんの口調にお祖父さまの蔵書への愛は感じなかった。それよりは、自分のものでもない、本という重くてかさばる物質に空間を圧迫され続けてきた者特有の疲れが実感としてこもっていた。

「お祖父さまの書棚ってどこにあるんですか」
「店から自転車で約15分のところにあるE町の一軒家です。僕が住んでいるアパートはその家の隣です」
「一軒家にはどのようにして本が置かれているんですか」
「10畳ぐらいの部屋が祖父の蔵書の部屋です。集めた本とそれを収納する書棚に部屋が埋め尽くされている、といった有様です。僕にとってはそこが実家なので、今も日常的に出入りしています。その部屋に入ることもたまにあります。集めたコミックの置き場にしているんです」
「蔵書整理のために業者を呼んだことって過去にありますか」
「ありますよ。だけどそのとき、頼んだ業者に蔵書の一部を万引きされそうになったんです。それ以来、処分に手をつけていません。信用のおける業者じゃないとお任せする気にはなりません」

業者に手をつけられたことがトラウマになっている、ということらしい。一筋縄ではいかないかもしれない。とはいえ、普段から世話になっているMさんなのだ。ぜひ力になってあげたい。僕は彼の申し出を了承し次のように言った。

「わかりました。知り合いを通じて、誰かいい人がいないか探してみます」
「お願いします」

このとき僕はMさんにひとつだけお願いをした。

「僕も現場に立ち会ってもいいですか。できれば取材させて欲しいんです」
「えっ、祖父のことなんかネタになりますか」

思わぬ申し出に驚いたのか。Mさんは少し狼狽し、半信半疑といった様子で答えた。僕は念を押した。

「見たことを書いてもいいですか」
「か、かまいませんけど」

Mさんのお祖父さんのことはネットで検索するとすぐに出てきた。大正の初期に生まれ、生前は地方の私立大学の教授をつとめ、詩人としての活動にも精を出した。Amazonで検索すると、20冊ほどの著書が確認できた。日本文学の解説や詩集、小説の書き方と、文章をどのようにして書くのか、ということをテーマにした本が多い。バブルが膨らみつつあった80年代後半、70代前半で亡くなっている。つまりは、亡くなってから四半世紀もの時間が経過していることになる。

亡くなったことを機に処分してくれる業者を探しているのだとばかり思っていたが、そうではないらしい。四半世紀も手をつけられなかったのは、何らかの理由があるからに違いない。

作家たちの場合

整体師Mさんの依頼をこのシリーズの編集を担当している「マガジン航」の編集者にさっそく振ってみた。すると「電子化にトピックを移す前に書いておいた方が良さそうな話ですね」と言い、大量の書籍の出張買い取りを行っている古書店主の一人に打診してくれた。そんなわけで、前回の文末で、どのように整理したのか、次回に種明かしをするとした宣言を後回しにすることにした。

5000冊、いやそれ以上の蔵書を持っていた人が亡くなると、蔵書はどこへいくのだろうか。今まで考えてもみなかったが、これを機会に考えてみることにしよう。

都立多摩図書館には、『路傍の石』で有名な山本有三の蔵書がコレクションされている。多摩図書館のホームページには次のように書いてある。

山本有三文庫 13,700冊(雑誌319誌)
故山本有三氏(小説家、劇作家 1887-1974)の旧蔵書で、1975年に遺族から東京都へご寄贈されたものです。氏が大正初期から晩年まで愛読されたもので、きわめて貴重な資料が含まれています。

『存在の耐えられない軽さ』の翻訳などで有名なチェコ語学者、千野栄一(1932-2002)の蔵書の大半は、『センセイの書斎』(内澤旬子・著)によると、チェコ語講師である亜矢子夫人が守り続けているのだという。

作家の井上ひさし(1934-2010)は先妻の好子さんとの離婚沙汰をきっかけに、郷里である山形県南部にある川西町に彼の蔵書13万冊のうち7万冊が寄贈され、1987年に遅筆堂文庫が設立された。

1994年には、遅筆堂文庫を核に、劇場と川西町立図書館を併設した複合文化施設「川西町フレンドリープラザ」が完成。開設以降も井上ひさしさんからの寄贈は続き、現在では、資料22万点(2010年現在)を収蔵している。(川西町フレンドリープラザのホームページより)

そのほか司馬遼太郎や松本清張のように作家の記念館に蔵書数万冊を展示物として利用しているケースもある。

恵まれないケースもある。というかむしろ、そうしたケースが大半である。たいていの蔵書は売り払われたりして散逸する、という無残な末路を辿っている。

「雑学の大家」「サブカルチャーの教祖」と呼ばれた評論家、植草甚一(1908-1979)は戦後、ミステリ、ジャズ、映画などに関するエッセイを書き続けたアメリカ文化の伝道師といえる存在である。彼は自宅の二部屋を書庫兼書斎とし、約4万冊の蔵書、4000枚のレコードからなるジャズコレクションを誇っていた。

死後、レコードに関してはタレントのタモリがすべて引き取ったが、蔵書は散逸したようだ。『ブルータス《本の特集》(1980年11月1日)』には夫人である梅子さんの話が掲載されている。

あの人が亡くなってから色々整理して今はこの部屋と書庫専用の部屋と2部屋になっています。(略)亡くなった後、何人か本の整理を申し出てくれた人もいましたが、みんなお断りしました。今は晶文社の人と、主人が昔から親しくしていた本屋さんだけが面倒みてくれています。本屋さんが少しずつ整理しながら売ってくれているんです。

記事には植草甚一氏の整理を手伝っている井光書店の話も紹介されている。

誰か全部まとめて引き取ってくれる人がいれば、散逸しなくて済むし有難いのだが、とても無理でしょう(略) 生かして使ってくれる人を探しています。

残念な気もするが、買い求め使用した本を市場に還元したという意味では、潔い選択なのかもしれない。資料を使いたい人のところへ回っていくはずだからだ。

次のようなケースもある。約5000冊をまとめて寄贈したいと遺言に書き残すも整理の手間や予算、書棚スペースなどの問題により、寄贈先が宙に浮いたままになったという学者の蔵書。やはり寄贈先が決まらず資料的な価値がある本だけが市場に売りに出された蔵書。このようにあまり幸せでないケースは、素人の蔵書に限らず、学者の蔵書においても珍しくないという。

落ち着き先が決まらなかったからなのか、蔵書の悲惨な末路を近所のゴミ捨て場で目にしたことがある。ブリタニカの百科事典の全巻セットや著名な作家の全集といった高価な書籍が、紐で結ばれて紙の資源ゴミと化していた。

天文学マニアだった父親の蔵書を捨てる

次は、懇意にしている作家・翻訳家の田中真知さんのケースだ。真知さんは『孤独な鳥はやさしくうたう』で次のように書いている。

父は無類の本好きだった。しかし一方で、とほうもない不精者だった。掃除や整理というものが大嫌いで、古新聞さえ出さなかった。そのため家の中は数年分もの新聞と、あたりかまわず積まれた膨大な量の本、それにおびただしい数の酒の空き瓶をまたがずには歩けなかった。そんな本とゴミの山に埋もれて、父は、居間に据えた古い天体望遠鏡の前で膝を抱えて安いウイスキーをちびちび飲んでいた。

天文学好きでもあった彼の父親は生前、新聞記者をしていた。慢性的なアルコール中毒で、 些細なことで激しく怒り、家族にたびたび暴力をふるった。真知さんが高校を受験する前後に、父親をのぞく家族(母親、真知さん、弟さん)は家を出た。それ以来、20年間、お父さんはその家に一人で暮らした。

20代半ばに日本を出て8年ぶりに帰国し、かつての自宅を訪れた真知さんはそのときの様子を次のように表現している。

家の中は八年前とはくらべものにならないほど異様な相貌を帯びていた。それは文字どおり、ごみだめだった。十数年間、掃除したことのない床には埃がびっしり積もり、人の通るところだけ凹んだ轍ができていた(略)。以前とちがっていたのは、腰を痛め、くの字型にからだを曲げたまま、床に横たわっていたことだった。

動くことが嫌いだったため、父親の足は萎え、小便の入った日本酒の紙パックが身体のまわりを取り囲んだ。髪や髭は伸び放題で、まるで仙人のようだった、という。

そして翌年、真知さんは旅先で訃報を知る。帰国し、通夜と葬式に参列した真知さんは、家の整理という問題に直面する。

通夜と葬式のあと、父の家を整理しなくてはならなくなった。家の中に入ると、おびただしい本とゴミの山の中で、黴の生えた畳の上に、父が寝ていた跡が、くの字型に残っていた。ぼくはそこに自分の寝袋を敷き、何日もかけて古本やゴミの整理をした。二十年間ためこんだゴミは、捨てても捨てても際限なくあふれてきた。古本もあまりに多すぎて、結局、大半は業者に処分してもらうしかなかった。

家にはかつての彼の部屋もあり、訪れてみると、そこは高校受験当時のころのまま時間が止まっていた。その様子を目の当たりにした真知さんの目元から思わず涙が溢れた。長年の間封印していた感情——自分や家族を取り囲んでいた恐怖や哀しみ——が蘇ったからだ。 しばらくして、やっと落ち着いた真知さんは、置き去りにしてきた記憶の一つひとつに、死を宣告し、葬っていった、という。

彼は当時の思い出の品々を父の蔵書やゴミとともに処分したのである。保存状態もあるのだろうが、父の持ち物、つまり蔵書を残すという選択はあり得なかった。彼は当時の思い出から決別したいという思いが強かったからである。

草森紳一のケース

草森紳一氏の仕事場は文字どおり、本で埋まっていた。(「崩れた本の山の中から 草森紳一蔵書蔵書整理プロジェクト」(2008-12-07)より転載)

前回(本で埋め尽くされた書斎をどうするか)に紹介した草森紳一(1938-2008)はどうだったのだろうか。2008年に逝去した後、2DKを覆い尽くした約3万冊もの蔵書のその後について、彼と長年連れ添い事実婚関係にあった編集者の東海晴美さんにお話を伺うことができた。

東海晴美さんの話は草森氏の最晩年のころのエピソードから始まった。2005年の夏、晴美さんは草森氏の部屋に本人の許可なしに侵入したことがある。突然連絡が取れなくなったため、「部屋の中で倒れているかもしれない」と晴美さんは身を案じたのだ。その年、草森氏は吐血を経験していたし、地震もあった。

ドアを開けて、ギョッとしました。視界全体が本で、足の踏み場もない。本の山を登り、奥まで行って探したんですが、トイレにもお風呂場にもいませんでした。そのとき彼は『本が崩れる』(文春新書)の原稿のために、別の場所で缶詰になっていたことがあとでわかりました。(晴美さんに同行した編集者に)「あなた瓦礫をよじ登る救助犬みたいだったわよ」と言われてしまいました。

それから3年足らずの2008年3月、無理がたたったのか、草森氏は突然、逝去する。晴美さんはそのときどう思ったのか。

草森さんが亡くなったとき、蔵書は残さなきゃと思いました。2005年に本人と話し合ったとき、「本からエネルギーをもらってるのよ。本は移動も処分もしない」と言っていましたし、幸い遺児である娘や息子さんも賛成してくれました。マンガから写真、美術、漢詩や書のことまで、何でも書いた人でしたから、蔵書を残すことは、物書き草森紳一の全体像を残すことだとも思いました。

ありとあらゆるジャンルの本の数々を買い集め、それらを絶対に捨てず、本のすき間でなんとか横になるという緊張感のある暮らしをしていたからこそ、草森紳一という作家の作品世界が花開いた。彼に創作のエネルギーを与えた蔵書の数々だからこそ、晴美さんは残したいと思ったのだ。しかし、もう草森氏はこの世にはいない。晴美さんはその現実と向き合わねばならなかった。

賃貸マンションなのでいつまでも借りているわけにはいきません(40平米の2DK、家賃は14万2千円)。床が抜けるかもしれないという不安はものすごくありました。とにかく早く(整理を)やろうってことで、引っ越し屋さんの見積りをとったんです。最初に来たアリさんマークの引越社の人は、本の洞窟に足を踏み入れて驚いたようですが、「ぜひやらせてください」と言ってくれました。次の一社は現場を見るなり、とても高い見積額を提示してきて、もう一社には「うちではちょっと」と断られました。でも、「ウワァ〜」と言いながら、奥まで入っていく営業の人は楽しそうでしたよ。結局、アリさんにお願いすることになりました。とんでもない物件だからこそ、プロ根性が刺激されたのかもしれません。

保管場所探しも並行して行った(この一連のプロジェクトについては「崩れた本の山の中から 草森紳一蔵書蔵書整理プロジェクト」のブログでくわしく報告されている)。

「まず半分でも部屋から出せたら何とかなる」ってことで「蔵書2万冊の保管場所求む!」というメールを知り合いに一斉に送りました。募集の甲斐あって、つきあいのある印刷所から倉庫を紹介していただけました。ワンフロア全部。100平米です。

(倉庫への)引っ越しは6月でした。6〜7人の作業員が来ましたが、本が大量なので全員部屋には入れないんです。事前に子どもたちや仕事仲間と相談して部屋をブロックに分け、廊下はグリーン、書斎は黒とか色分けしていました。引っ越し屋さんには色テープを貼った段ボールにその場所の本を詰めてもらい、ある程度まとまると台車に乗せてエレベーターへ、トラックへと流れ作業でフル回転して、作業は2日間にわたりました。蔵書の半分を運び出すのに2トントラック2台が必要でした。

晴美さんが草森氏の部屋を訪れたときの話を先に聞いていたからか、案外早く片付いたな、という印象を抱いた。結局は残った半分も倉庫に持っていくことになるわけだが。

本は倉庫のパレットの上でジャンル分けされていった。

晴美さんはさらに蔵書整理を手伝ってくれる人の募集をかける。その結果、草森氏の担当編集者たち、友人知人、初対面の本好きなどが手を挙げた。

作業は金土に行いました。倉庫の真ん中に置いたパレットを作業机とし、色分けをした段ボールを開いてジャンル分けをするんです。ボランティアは4〜5人から、多い日で15人ほど。あのジャンルならあの人が強い、といった感じで、みなさん誘い合わせて来ていただきました。なんとなくお昼頃に集まって、疲れたら外で一服。まるで部活動のような雰囲気でしたよ。

一冊一冊、蔵書を開いていったときの印象はどのようなものであったのか。

「これを売れば少しは倉庫代が浮くかな」という豪華な書の本や美術本も、開けてみると注釈のところにまでちゃんとチェックがついていました。(どの本も)そのぐらい読み込んでいる。すごい人なんだなと改めて思い、やっぱりこれは残さなきゃ、という気持ちが高まってきたんです。

草森氏の本を開いたときの印象はとても強いものだったらしく、作業に参加した女性スタッフもこんな風に体験を語ってくれた。

箱を開くたびに、児童書からエロ本まで、よくもこんな本を見つけ出すなあと感心するような、ありとあらゆる本がでてくる。しかも、付箋は貼ってあるわ、書き込みはしてあるわ、白髪ははさまってるわ。草森さんの本に触れる作業はワクワクするものでしたね。

草森氏の膨大な蔵書は、ボランティア・スタッフがジャンルごとに箱に区分し、本の背を写した大量の写真をインデックスとして整理していった。

草森さんの人徳なのか、蔵書整理のために集まった人材は精鋭揃いであった。

「これ何のジャンルかわからない、明治時代の本らしいけど」とか言うと、ハイハイってすごい勢いでどこからともなく詳しい人が現れて、とっとと分けてくれるんです。古い和綴じ本や幕末関係の本、美術関係、SF、幻想文学、精神世界、「穴」関係、大量のマンガ本に、文革当時の中国の原書など。ジャンルは多岐にわたっていましたが、それぞれのジャンルに強い人たちが集まっていました。

作業は着々と進み、8月にはすべての段ボールのジャンル分けが完成する。計731箱。それぞれのジャンルの箱数がわかったところで、本の寄贈先を求めて、晴美さんは大学教授や企業の人に会いに行った。

一括寄贈が無理なら、草森さんのライフワークだった李賀、副島種臣、文革といったものだけでも生き残らせることができたらいいと、この時点では思っていました。

ある企業を通じて北海道に寄贈先が決まりかけたこともあったが、結局、10月に流れてしまう。晴美さんは意気消沈した。

倉庫代だけで月15万円プラスアルファかかっていました。3月に亡くなって8月に蔵書整理が終わり、秋までには寄贈するなり、残念だけど古本屋に売るなり、決めてしまわなければと思っていました。企業のお話は具体的な段階に入っていたので、本当にガクゼン。そのころ「もう無理ね」と周囲に漏らしたりしていました。目録入力も始めていたのに、私は諦めかかっていたんです。

ところが、手伝ってくれていた人たちが「へこたれるものか」とか、「ブログやホームページで草森文庫の存在をアピールしましょう」と励ましてくれました。そして本当にホームページやブログを作って、目録入力も続けてくれました。そうこうしているうちに帯広図書館の館長から「引受先が決まるかもしれない」という文面のお手紙をいただいた。寄贈先が決まったんです。

帯広大谷短期大学が受け入れることになり、2009年11月、草森氏の約3万冊の蔵書は北海道へ送られた。彼の故郷である音更(おとふけ)町の支援も得られて、小学校の廃校にまとめて収蔵され、一年後の2010年11月には部分展示を行う「草森紳一記念資料室」が大学内にオープンした。

草森氏の逝去から2年の歳月がすぎていた。植草甚一の蔵書に比べると、非常に幸せな着地点を見つけた、といえるだろう。すべてが終わった今、晴美さんは感慨深げに振り返った。

このプロジェクトがうまくいったのは人と人とのつながりのたまものです。電子ブックの時代になるとこういうことは起こらないでしょう。運ぶ必要もなければ、汗を流す必要もありませんから。経済的にも、精神的にも、体力的にも大変で、ひどい五十肩にもなってしまったけれど、おもしろかったんですね、とても。楽しかった。段ボール箱の中からどんな本が出てくるのか、みんな好奇心いっぱいで作業していました。

とてつもなく重く非常にかさばる3万冊以上の書籍(最終的に草森氏が自宅に所有していた蔵書の総数は3万1618冊)があったからこそ、持ち主である草森氏が風呂場に閉じ込められたり、血を吐いたりした。周囲の人間は生前、草森氏の健康を気遣ったり、部屋の床が抜けないか心配したりした。死後は死後で、残された周囲の人たちが整理のために奔走したり、倉庫代の捻出に苦しんだりした。

しかしなにより本の存在感があったからこそ、草森氏は作家として開花したのだし、死後「なんとかしなきゃ」と有志が集まり、蔵書整理という作業に赤の他人同士が結束して、取り組むことができたのだ。故郷の音更町には、1977年に建てられた草森氏の書庫「任梟盧(にんきょうろ)」(約3万冊所蔵)もある。東京から送られた3万冊は、現在、同町の小さな木造の元小学校で、地元ボランティアにより、さらに整理が進められている。

以下は、晴美さんの呼びかけに答えた協力者の一人がつぶやいた言葉である。

今まで会ったことのない人たちが草森先生の蔵書整理に来て協力し合う。まさにロマンですね。

本がデジタル化し切ってしまえばこうはいかない。未来の人間がこのプロジェクトのことを知れば、おとぎ話にしか聞こえないのかもしれない。

Mさんの祖父の蔵書のその後

さて、話を冒頭のMさんの話に戻すことにする。

「マガジン航」の編集者が僕に紹介してくれた古書店主の名前は聞いたことがあった。前回に紹介したノンフィクション作家、内澤旬子さんの展示会に関わっている人物で、内澤さんへのインタビューの中で彼女の口から出てきた名前であった。向井透史さん、「古書現世」という古本屋の二代目店主である。いったいどんな人なのか。「マガジン航」の編集者に引き合わせてもらい、面談に臨んだ。

まずは今までの仕事ぶりについて、話を伺った。

大学には行かず、18歳でこの業界に入りました。1990年代前半のことです。そのころは古本市で2000万円の売り上げを記録することがあり、なんて楽な商売なんだと思いました。ところがゼロ年代に入ると古書目録が売れなくなり、今はというとさらに状況は悪くなりました。仕入れはしやすいけど売るのは大変な時代です。

本を売る手段ですが、店舗以外には即売会、わめぞ(早稲田、目白、雑司が谷の「本」関係者の緩やかな集まり。古本を中心としたイベントを不定期で開催)のイベントなどがあります。わめぞは10数人という規模でやっています。楽しみだけで商売は続きません。やはり仕事として取り組まないと。この仕事の醍醐味は、古くなり埋もれてしまった本を値段を付け替えることで生き返らせることができる、ということに尽きますね 。

彼は42歳である僕よりも若く、それでいてしっかりとしている。経験値といい仕事に臨む態度といい申し分がない。事実、メディア業界や文壇での信頼は厚い。 例えば、ノンフィクション作家の日垣隆氏は、死んだら蔵書は向井に整理させる、と宣言しているそうだし、かつて経団連会長をつとめていた故・土光敏夫氏の書斎整理を文藝春秋編集部が向井氏に依頼したりもしている(その様子は月刊「文藝春秋」2011年10月号に掲載された)。

前回お伝えした内澤旬子さんの「断捨離」には向井さんが関わっている。展示会で売れ残った彼女のイラストを一手に担い、イベントなどで売り歩いているという。託されたイラストは内澤さんへ戻すことはない。つまり彼が責任を持って、売り払っているのだ。

向井さんの手がけている蔵書整理とはどのようなものであろうか。

遺族の望みは「とにかく早くやって欲しい」というものです。「動かしていただけますか」と依頼があると、お宅に伺います。書棚を拝見した後、たとえば査定額を「5万円」とか伝えると、たいていお客様が払おうとするんです。というのも、遺族にとって残された本とはゴミでしかないんです。その価値を認めている人はほとんどいません。

査定をその場でやるかどうかですが、うちの場合、「あとでいい」というケースばかりです。買い取れるかどうかは本の程度によります。買い取れないほど質が悪ければそれこそ縛って資源ゴミとして出す方がよいでしょうね。

たいていは5000冊以内、運び出しはバン(ワンボックス)一台もしくは二台で足ります。古本市に通っている人なら蔵書が5000冊以上という人は珍しくないですが1万冊以上となると、さすがに多いと感じます。本がどのぐらいあるか、玄関に本があるかどうかがひとつの基準となります。玄関が本で占拠され、中に入るのが困難な状況であれば、多いとみて間違いありません。

床が抜けるほどの蔵書持ちの部屋を手がけたことはあるのだろうか。

今まで見た中で一番すごかったのは6畳ぐらいの和室なんですが、真ん中に布団が敷ける畳と出入り口だけを残して、三方向が天井まで本が三重に積み重なっていました。家中が棚の人、寝たきりのおばあさんのベッドが敷き詰められた本の上にある部屋は本を抜いていくと、下からグランドピアノが出てきたこともありました。ただ、いろんな部屋を見てきましたが、床が抜けた部屋というのは一度も見たことがありません。

こうした仕事はだいたい年に一回ぐらいだったが、2011年3月の震災後は依頼が増え、「今では一、二カ月に1回というところ」にまでなっているという。

Mさんのお祖父さまの蔵書の整理は引き受けてくれるのだろうか。Mさんが僕に話したとおりの概要を向井さんに話してみたところ、向井さんは次のように答えた。

お話を聞く限り、依頼者の棚は、国文学中心の堅実な棚なのだと思います。業者の価値を基準にしているんですが、国文学や教育学の一次的資料はともかく、研究書は現在、価値がつかないことがほとんどですね。売りづらいです。

同じ国文学でも文芸書であれば売れる可能性はあるが、教育学の研究書となると欲しがる人が少ない、というのが実情のようだ。ともかく、向井さんは依頼について快諾してくれた。

一度下見をしてから、バンで引き取りに行く。希望がなければ査定は後日、という流れでいかがでしょう。今月は月末の○日以外はお伺いできますよ。

あまり良い査定額が望めないが、買い取りそのものは引き受けてくれるということらしい。

向井さんが引き受けてくれるということを、翌日、さっそく整体院に伝えに行った。

「いい古本屋が見つかりましたよ」

そう伝えると、意外なことにMさんの表情はにわかに曇った。

「祖母が反対しているんですよ」

彼女は書棚の整理を頑として認めないのだという。ここでいう祖母とは蔵書の持ち主の夫人のことである。その方も含め、処分するという方向で家族間の意思統一がはかれていると思っていた。だからMさんの話は意外に思えた。はい、そうですか、とあっさり諦めることができない僕は質問をぶつけ、食い下がってみることにした。

「お祖母さまはどちらにお住まいなんですか」
「うちにいますよ。認知症が進んでいますが、まだ自分のことは自分でできます。だから、整理するとしても祖母が亡くなってからでお願いできませんか」

お祖父さまが現役であった頃、創作の源として利用した書棚なのだ。お婆さまは書棚に本が増えていく様を長年見続けたのだろう。夫が何を考え、何を書いたのか。その痕跡が未だ残っている書棚にある。亡くなってしまっても、故人の思考遍歴が書棚には残っている。つまり、故人の分身としての書棚なのである。

Mさんのお祖母さんが現在どのぐらい記憶を保持し、判断能力があるのかはわからない。次第にお祖父さんのこともわからなくなっていくのかもしれず、そうなれば長年の家族の懸案である書棚の整理に取り組める状態がくるのかもしれない。しかし判断ができなくなったからといって、かつての意向を無視して整理をしてしまうことは、許されることなのだろうか。

亡くなった夫の書棚とはお祖母さまにとって、漁師が時化た海に見つけた灯台の光のような存在なのだろう。灯台の光が消えてしまえば漁師は遭難してしまうかもしれない。同じことがお祖母さまの身にも起こりかねない。ここはお祖母さまの意思を尊重してあげるのが筋なのだろう。

「わかりました。今回の話はペンディングにしておきます」

結果を編集者と向井さんに伝えた。
向井さんは言った。

「高齢の遺族の中には、思い出として残しておきたい、という人が多いんです。蔵書のすべてに人格を見ているんですね」

過去の書棚整理の経験を思い出しているのか、依頼者の気持ちをひとつひとつ確認するようなゆっくりとした口調であった。

(このシリーズ次回につづく)

※この連載が本の雑誌社より単行本になりました。
詳しくはこちらをご覧ください。

執筆者紹介

西牟田靖
ノンフィクション作家。日本の旧領土や国境の島々を取材した一連の作品で知られる。「マガジン航」の連載をまとめた『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)をはじめ、著書に『僕の見た「大日本帝国」』(カドカワ)、『誰も国境を知らない』(朝日文庫)、『ニッポンの穴紀行〜近代史を彩る光と影』『ニッポンの国境』(光文社新書)、『〈日本國〉から来た日本人』などがある。
モバイルバージョンを終了