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appの未来

未来を展望すると、来るべき本に取って代わるものが何であれ、それを「本」とは呼ばないだろうと考えてか、いろんな人が私に、どうして自分たちのグループを「本の未来研究所(The Institute for the Future of the Book)」と名付けたのかよく聞いてくる。

私の答えは一貫して以下のような感じだ:時間と空間を超えて考えを伝えるのに不可欠な仕組みとして、本に取って代わるものが「本」と呼ばれなさそうなのはその通りだが、まだそれにあてはまる言葉がない以上、「対話未来研究所」とか「本の後継者について考える研究所」よりも「本」のほうが有効だ。私は、いつか新たな目的を表現する言葉、あるいは一連の行動を指す言葉が、現実に本に取って代わる有力なメディア形態の意味となる日が来るであろうことを示唆して回答を締めくくっている。

私はいつも、何年後か年十年後にその日がくると考えてきた。だが最近、フラックス弦楽四重奏団がモートン・フェルドマンの弦楽四重奏曲第一番を演奏するのをイーストリバーを優雅に揺れる遊覧船の上で聞いているとき、突然その第一候補が浮かんだ――「app」だ。自分が期待していたようなこぎれいだったり表現豊かな言葉ではないが、これが適切に思える。

それがひらめいた瞬間はこんな感じだった……フリードマンの曲に意識を向けたりほかの事に気をやったりしていると、自分がこの六週間、読み物の大半を済ませただけでなく、今お気に入りのSoundDropなど表現力豊かなゲームを遊んだり、電子メールに答えたり、ウェブサーフィンしたり、動画を見たり、音楽を聞くのにiPadを使っていることに思い当たったのだ。iPadは、コンピュータやiPodやiPhoneよりも私のメディア領域の中心に位置している。私が読む文章は、以前なら「本」と呼ぶ物に入っていたものだ。映画はテープ、レーザーディスク、DVDに入っていたし、音楽ならレコードやCDだし、ゲームならカートリッジやCDになる。今やそれらすべてが私のiPadに何らかのappとして入っている。

メディア形式の違いは、二十世紀半ばのアナログ時代の頃はずっと重要だった。1950年には、誰も小説を映画と混同したり、曲とテレビ番組を混同したりはしなかった。しかし今日では、動画シーケンス付きの電子書籍や、豊富なテキストベースの補足資料付きで発売される映画がある。レディ・ガガは音楽スターだろうか、それともビデオスターだろうか?

このあらゆるメディア形式の平坦化が長期的に引き起こすものや多様なapp体験を深く理解するにはもう少し時間がかかるだろうが、「app」という言葉が主導権に近づいていると言うには早すぎるとは思わない。

昔は本があり、映画があり、曲があった。今はそれらすべてが一つのカテゴリ――app――に束ねられつつあって、接頭辞によりさらに詳しく説明されることになる。今日では映画にバックストーリーがあり、ウェブでファンの詳しい解説が読めることや、新たな小説形式がメディアの複合物を探求し利用することを想像するのは容易だ。かつては何かしら意味があった本、曲、映画という分類は、誰もが他の形式を組み入れることが可能なこの流動的なデジタル分野では明確な意味を失ってしまっている。メディアの不可知論と包括的な流動性において、「app」という言葉はこの展望を既に表現している。

「本」という言葉を考えてみる。「本」はそれ自体では通常、最低限定義された有形物、入れ物の総称を指す。そこに修飾語句がついて初めて、それが小説か、ノンフィクションか、料理本か、教科書か、画集か、児童書か、ハウツー本か、絵本か、歴史書か、宗教書かなどその中身について十分に知ることになる。

この観点からすると、「app」も既にその域に到達している。ブックアプリ、料理アプリ、映画アプリ、ゲームアプリ、生産性アプリ、ハウツーアプリ、子供用アプリ、音楽アプリ、写真アプリなどすべて手に入る。そしてもちろん、周知の用語として急速に浸透しつつあるApp Storeという言葉が我々にはある。

そう、だから……私は今ちょっとこの文章を離れ、futureoftheapp.orgのドメインを登録したところである。

(日本語訳 yomoyomo)

※この記事のオリジナルはこちら
the future of the app

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