これから書くのは、研究所で仕事を行なう中で浮かんだ多くのアイデアを結びつけようとして、数ヶ月にわたり書き継いできた一連のメモである。たくさんのフィードバックをいただければと思う。
序文
私は30年近く「ニューメディア」の可能性を探究してきた。媒体としての書籍の本質的な性格を理解しようとした早い段階で、なるほどと閃く重要な瞬間があった。突破口となったのは、本の物理的な形や内容について考えるのを止め、代わりに本がどのように利用されているかに考えを集中したときだった。その当時、出版物は他のメディアと比べ、コンテンツにアクセスする順序や速度を利用者に完全にゆだねる点がユニークだった。理解できるまで段落を再読したり、文章間をほぼ一瞬で行ったり来たりしたり、立ち止まって余白に書き込んだり、ただ考えてみたりできる――(比較的安価で、持ち運びできるパッケージに入った)この熟考のアフォーダンスこそが、なぜ本が空間と時間を超えて考えを運ぶとても強力な手段なのかを理解する鍵だった。私は本をユーザ主導のメディアと呼び始めた――映画、ラジオ、テレビと対比したもので、これらは当時は製作者主導だった。マイクロプロセッサがオーディオやビデオのデバイスと統合されれば、この相違は消滅するだろうと私は結論づけた。しかし――そしてこれが重要なのだが――1981年に私は、不変性こそが本の重要で決定的な面だとやはり結論づけていたのだ。未来の本は、固定的な「ページ」に音声や動画を含むかもしれないのを除けば、それまでの本と同じというわけだ。これが電子出版のビデオディスク/CD-ROM時代だった。
ウェブの出現は、この未来の本を、たとえマルチメディアがつくにしろ固定的なものとしてとらえるビジョンを完全にひっくり返した。マルチメディアは、特に熟考を促すフォーマットでは魅力的だが、動的ネットワーク内に対話を配置することはもっと甚大な変化を期待させる。読み書きは常に社会的な活動であったが、その事実は印刷媒体によって覆い隠されがちだ。我々は、椅子や木の下に丸まって座り一人本を読む人や、一人屋根裏部屋にこもる作家のイメージとともに育った。同僚や私がこの数年ネットワーク化された本の実験を行なう中で学んだ最も重要なことは、対話がページから離れネットワーク上に移るにつれ、その社会的側面が時に驚くほど明瞭になることだ。こうしたやり取りは背景から前景に移るが、それは劇的な意味合いを持つ変化である。
そこで……
私は12年近く何も出版していないのだが、正直に言えば、これは自分にとってしっくりくるモデルがなかったからだ。ある日ロンドンの通りを歩いていて、突然モデルがちゃんとあることに気付いた。このちょっとした考え方の突破口を冗談っぽく「出版の統一場理論」と呼んでいるが、それについて考えれば考えるほどしっくりくるのを感じる。これに至るまでに、いかにして多様な見地が互いに称賛と反論の両方をし合いながら動的な全体像を作り上げるかを理解する必要があったからだ。はじめて全体のつじつまが合い、私はこの理論に興奮している。あなた方も納得されることを期待する。そうでなければ、このモデルの壊れているところや、深化、修正、大幅な見直しが必要な部分を教えていただきたい。
統一場理論が答えなくてはならない重要な問題
- デジタルネットワーク時代において成功する著者の特徴は何か?
- 読者にも同じ問題がある。デジタルネットワーク時代の読書を包含する行動範囲をどう説明する?
- 出版社と編集者の役割は何か?
- プロ(の著者)とアマチュア(の読者)の関係はどうなる?
- 問題1~4への答えは実行可能な経済モデルを提供できる?
それで私はどうやってここに辿り着いたのか
私は、元々Knopfから刊行された素晴らしい2巻の歴史書を基にして1993年にボイジャーから出たCD-ROM『Who Built America』について考えていた。一年かけてその本の著者たちと活発な終わりなき議論をしながら、我々は電子書籍の可能性を理解しようとした。我々の考え方の突破口は、プロセス――歴史書は著者が一次資料となる文書や他の歴史家の作品を読み、同僚と会話を交わした結果を統合したものを象徴している――について考え始めたときに訪れた。そこで我々は何百もの歴史的資料――文章、画像、音声、動画――をCD-ROM版に追加し、テキスト全体に何十もの「脱線」を組み入れた。我々が願ったのは、より深く、満足なレベルで著者の結論に読者を引き込むことだった。その日ロンドンで私は、(固定的なCD-ROMではなく)デジタルネットワークの文脈でこれがどのように起こるか考えるにつれ、新たな可能性の爆発を感じた。以下に少しだけ挙げさせてもらう:
- 原資料にアクセスできることで、CD-ROMの容量、スペース、著作権の制約からずっと広範に自由になれる。
- 活発なコメント欄はクラスが独自版を持つことを可能にし、余白で活発な会話を行なえるようになる。
- 著者が作品に新発見を追加し、「歴史を実践する」ことで歴史を学び始め、著者の結論を疑い、新たな資料やこれまでに替わるまとめを提案することを始めた「読者」と終わりなき議論を行なうことで絶え間なく進化するテキスト。それだ! その最後の項目がもたらすのは……
b) ふーむ、一見すると、それが永遠にプロセスであり、その終わりなき熟慮が全体像を理解するのに重要だという意味ではWikipediaの記事にかなり近い感じがする。しかし、違うところもあって、それはWikipediaの記事が作られても、ページを作り時間をかけてその面倒を見る人を称賛する特別な、持続的な役割がないというWikipediaの特徴があるからだ。ただそれは私がここで議論することではまったくない。動的ネットワークにおいて対話を配置することで、著者と読者との区別は消えないが、伝統的に受け入れられてきた階層をかなり平板化する。ケン・ワークの『Gamer Theory』を刊行して以来、私はネットワーク化された本の著者をグループ活動のリーダーとして考えるようになっているが、多くの点でセミナーにおける教授の役割と似ている。教授が予めテーマを決めるので、他の参加者よりも多くを知っていると思われるが、その役割は協力してグループが知識を統合、拡大するよう導くことにある。これは一つの見方がすべての著者にあてはまると言っているのではないし、実験期や過渡期には特にそうだ。議論のために完璧なテキストを書き記そうとする著者もいるだろう。読者からのインプットを基にかなり書き直すことを見越して草稿を提出しようとする著者もいるかもしれない。テーマの条件と境界を定め、他の人が直接執筆に参加することをよしとする「著者」もいるかもしれない……
これらすべての可能性を通じて鍵となる要素は、読者と直接協働することへの著者の関心である。本の著者の関心が読者のために特定の主題に取り組むことであったなら、ネットワーク時代にはそれが特定のテーマについて読者と協働することへの関心にシフトする。
c) ネットワーク化された本が進化するにつれ、読者はますます自分たちを社会的プロセスにおける参加者とみなすようになるだろう。長い過渡期には特にそうであるが、著者と同様に我々はいろんなレベルにおける(読者の)参加を見ることになる――他者が存在することを単に認めるところから、著者と仲間となる読者の大変活発な参加まで…
(ネットワーク時代の読書に関する事例報告)
ロンドンに住むある母親が最近、彼女の10歳になる息子の読書行為について語ってくれた。「息子は(印刷された)本を読むでしょう。彼は本を置いてその本のウェブサイトに行きます。それからフォーラムで他の読者が書いてることをチェックして、自分のコメントを残すかもしれませんが、それからまた本に戻ります。そしてまた本を置き、ふと浮かんだ疑問をググるでしょう」私としては、印刷されたページを見るのに費やす時間だけではなく、こうした活動の全範囲を含めるよう読書という行為の定義を変えることを提案したい。
続く…
d) この著者観で特に私が好きなのは、それがプロフェッショナルとアマチュアの矛盾を解決することだ。それはすべての潜在的な参加者を同等だと言っているのではない。それどころか、著者があるテーマに一般に認められた専門知識に加え、結集したコミュニティと協働する意欲/可能性をもたらすのを認めている。読者は(Wikipediaと同じく)その内容の完全性に直接責任を負う必要はない。うまくいけば、読者はコメントや参加を通して監視を行なうわけだが、このモデルは読者の幅広い能力と関与を引き出すことができる。
e) 書き手を食物連鎖の中心ないし頂点から外し、読み手を同様の重要を持ち熟慮を行なう領域に移すよりフラットな階層の可能性を認めれば――つまり、読み手と書き手の本質的な関係を、同じ範疇に属する同等に重要な要素と認めれば――出版社と編集者の役割の再定義にかかれる。出版社と編集者が著者のアイデアのパッケージ化と流通の役割を担うのが昔ながらの決まりだろう。出版社と編集者があるテーマを探究する著者と読者グループからなるコミュニティの構築に貢献するのが新しい決まりかもしれない。
f) つまり、決して時代遅れな存在になったわけではなくて、ネットワーク時代にも出版社と編集者には演じるべき重要な役割があるということである。未来の編集者はますますプロデューサーに近づき、プロジェクトを立ち上げ、制作と流通のすべての要素を監督し、そしてもちろんいろんな層、大きさ、形態のコミュニティを構築、育成する役割を果たす。成功する出版社は、監督者とノウハウを築くコミュニティを中心としてブランドを構築し、なおかつ複雑なユーザ体験の基礎となる堅牢な技術基盤を実にうまく設計、開発するだろう。[「出版社」という言葉をたくさんの仕事と責任を包含して使っているのは承知しているが、この簡略化が議論に大きな問題をもたらすとは思わない。]
g) 著者/読者/編集者/出版社の役割が決まれば、我々は誰がどんな種類の価値をいつ加えるかの評価にかかれる。そこからビジネスモデルを展開できるわけだ。思うに、この過渡期(5、10、50年)はいろいろなマネタイズスキームが生まれるだろう。人々は作品、出版社、あるいは複数の出版社から作品を集めるチャンネルの購読権を買うだろう。特定の作品に特定期間アクセスする権利を購入するかもしれない。「閲覧専用」なら無料だが、出版社が文書の外部、あるいはコミュニティ内部へのリンクに課金するような段階的なアクセスが実現するかもしれない。抜け目ない実験と注意深くユーザ/読者/著者の意見に耳を傾けることがとても重要だ。
h) 上記のアイデアは、特にモデルがインタラクティブな物語という複雑な分野も含むまで広がるので、あらゆるジャンル――教科書、歴史書、自己啓発書、料理本、ビジネス書、フィクション――に同等に当てはまるように見える。[読者が自分自身のエンディングを選択するのでなく、進行する物語を作り出す役割を果たすような世界を著者が作る複雑できめの細かいオンラインイベント/ゲームを考えてみよう。]
これは一つのモデルですべてを網羅すると言っているのではない。例えば、テーマやジャンルが変われば、最適なコミュニティの枠組も変わる(例:リアルタイムマルチプレイヤーゲームと歴史や哲学のエッセイの緻密な読解の対比)。一つのジャンル内でも、コミュニティが同じクラスの生徒からなるのと現実世界では他人同士からなるのとでは違いがあるだろう。
他の考察/問題
- 著者が、自分たちが関わりたいと考えるモデレーション/参加のレベルを選択できるようにすべき。同じことは読者にも言える。
- すべてのプロジェクトがこの継続的/終わりのない形態をとる必要はない。
- これはあらゆる表現方法にあてはまることで、文字ベースに限らない。この新しいモデルの大きな特徴は、メディアの種類ではなく流通のメカニズムだ。何か出版されるのは、個々の読者/ユーザ/視聴者がそのタイミングと内容やコミュニティとの交流形態を決めるときである。何か放送されるのは、それがオーディエンスに同時かつリアルタイムに配信される場合である。いずれは、おそらくライブコンテンツだけが放送されることになる。
- これらのアイデアのいくつかを人に話すとよくある最も熱心な反応は、「間違いなく、その話はフィクションにはあてはまらないだろ」というものだ。フィクションで400ページの小説についてなら、確かにあてはまらないが、長期的に見れば小説がフィクションの支配的な形式でい続けるわけではないと私は勝手に考えている。思うに、フィクションがどこに向かうか理解するには、「ビデオゲーム」の世界で起こっていることに目を向けるべきではないか。『World of Warcraft』は、エンディングのないゲームを埋め合わせる課題や目標を達成するべく協働する30人以上のギルド(チーム)を作るために1000万人もの登録者が月15ドル払っているオンラインゲームだ。ゲームを開発した人を作者とみなすのは大きな変化ではないが、プレイヤー(読者)が単に見るだけだったり、物語が展開するままに読むだけではない仮想世界を設計して構築する――つまり、プレイヤー(読者)が遊ぶようにそれを組み立てるのだ。むしろ、この観点からすれば、物語の拡大はゲームプレイの本質である。
- この分野における活動的な参加者として、何百万人ものプレイヤー/読者は単に見ているだけだったり、展開される物語をただ読んでいるだけでなく、自分たちが遊びたいように物語を作り出す。
- 何らかの理由で著者が特設サイトを構築する費用を妥当なものと考えないなら、編集者はプロジェクトに相応に一般的な出版テンプレートを利用する選択肢を持つべきだ。その場合でも、初稿を書いたり、実験的に原稿の公開したりできる執筆環境へのアクセスを著者に提供するのが想像できる。
- 読み書きの社会的関係の前景化がもたらす必然的帰結として、仕事への貢献を評価されるセレブ編集者やセレブ読者の登場を我々は目にすることになる。
- そのうち我々のデジタル文化(新しいコンテンツだけではなく、デジタル化されたすべてのメディア……本、動画、音声、画像とすべて)をタギングすることが仕事の「プロ読者」の登場も目にすることになりそうだ。これはdeliciousや他のタギングサービス、あるいは画一的な群衆の結集された叡智の役割を過小評価しているのではなくて、ウェブをフィルタする作業の複雑さがそのうち新たな職種を生む可能性を認めているに過ぎない。
- このモデルが発展したら、読者がコメント/貢献/情報交換できる手法もさらに多くの人たちとさらにもっと複雑な会話ができるよう継続的に発展する必要がある。
- リミックスはどのように適応するだろう? 著者にとっての一つの表現方法としてだろうか? 読者が行なうこととしてだろうか? ある人のマテリアルを別の人が何かしてもよいものとしてだろうか?
- 外向きのサイトをデザインすることが重要である。それはネットの他の部分との境界が穴だらけである現実を強調することになる。
- 本には勢いがある。これはベストセラーやAmazonのリストを見た現在の位置感のことではなく、むしろコミュニティの大きさや活動レベルの話だ。
- 本はチャンネルと見なすことができる。そのチャンネルが周りに他の本を「引き寄せる」場合は特にそうだ。例えば、共産党宣言や聖書を、他の無数の作品や論評――会話の集まりである――を引き出した核となる作品と考えてみよう。
- 成功する出版社は、コンテンツとそれがもたらす会話を視覚化する新方式を受容し、発展させるだろう。[例:検索でヒットしたページをつなげるだけでなく、ヒットした各ページの内容がその文書の残りとどう関係しているか視覚化するGoogle検索を想像してみよう……注記:これは我々がまだ実現できていないものを想像した例であるが、それにより未来をデザイン/発明する方法を考える助けになる。]
- 電子出版のビデオディスク/CD-ROM期に、我々は熟考を許容する新しいマルチメディアにあらゆるメディア種別を統合する価値と可能性を探究した。ネットの勃興とともに、我々は動的ネットワークで対話を配置して起こることの可能性を探究し始めた。帯域幅やハードウェアの問題がたくさんあって、インターネットはマルチメディアには不向きだったが、そうした制約は終わりを迎えつつある。今ならば流れを一緒にまとめ上げるのを想像できる(もしかするとこの最後のポイントは、統一場理論以上のものにつながる)。
(日本語訳 yomoyomo)
※この記事のオリジナルはこちら
a unified field theory of publishing in the networked era(if:book)
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執筆者紹介
- (Bob Stein)
米ボイジャー創業者
if Book - A Project of the Institute for the Future of the Book
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