季刊誌「マグナカルタ」Vol. 02(2013年 春号)で、なぜ数多いる日本人作家の中で村上春樹だけが突出して海外でも読まれているのか、というお題をいただいたことがあります。引き受ける際に「論と呼べるような持論は特になにもありませんが、なぜなのかを彼の人脈という点から種明かしをする形でなら書けます」とお答えして、それでもオーケーだということだったので、書きました(その時の原稿は『新・日本人論』というアンソロジーに加えられました)。
村上春樹の小説だけが、海外で飛び抜けて売れるわけ
その種明かしとは、「村上春樹の本がこれだけ海外で、とくに欧米で売れるようになったのは、彼のバックに業界屈指のリテラリー・エージェントと、ランダムハウス傘下のクノップフという文芸の一流出版社と、村上春樹が翻訳を手がけたレイモンド・カーヴァーらの担当編集者がついているから」という、「論」とはおよそかけはなれたものでした。小説の中身やその良し悪しについては一切言及せず、彼をとりまく人脈図を紹介し、その人脈が開拓できたのは、彼に英語力があって自分から働きかけることができたからだという、身も蓋もない理由づけだったわけです。
でも、村上さんがそうだからといって、私は「英語ができない日本人作家には道が閉ざされている、だから英語を身につけろ、あるいは英語で書け」などと、本末転倒でめちゃくちゃなことを言うつもりは毛頭ありません。作家を生業とする方々には、これからも母国語で精進してほしいものであります。つまりは個人の英語力の問題ではなく、「英語圏」への壁を乗り越えさえできれば、他の作家にも十分、世界中で認知されるチャンスはありますよ、ということが言いたかったのです。
その村上さんの新刊『職業としての小説家』では、初めて本人の口からアメリカ進出の経緯が詳細に語られています。この本を読み、私が書いたことがおおかた間違った推測ではなかったことがわかって「えっへん」という気持ちと同時に、やっぱり村上さんはスゴイ人だという思いを強くしました。私は「マグナカルタ」の原稿で彼がつかみとったその人脈を、「幸運」という舌足らずな書き方をしてしまったことを謝りたいです。降って湧いたような棚ボタの “luck” ではなく、彼が自分の力で手繰り寄せた「縁」だったのだということがよくわかりました。
その村上さんが90年代前半にアメリカのタフツ大学やプリンストン大学で教鞭をとっていた頃、私はニューヨークにあった講談社アメリカにいたこともあって、時折オフィスに寄ってはスタッフの人と会ったり、自著にサインをしていた彼の姿を見かけたものです。こうして『羊をめぐる冒険』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の英語版は重たくて立派なハードカバーの本になりましたが、今回の本で村上さん自身が仰っているとおり、売れ行きという点ではそれなりというか、まだまだでした。
残念ながら、アメリカの書籍流通システムでは出版社の規模や知名度よりも、「本を売ってきた実績」がモノを言うのです。たとえば全米の書店で平積みにされている本にはすべて「コアップ」広告費というお金が動いていることは、日本ではあまり知られていません。そしてそのコアップにかけられるマーケティング費、つまり平積みの目立つ棚においてもらえるかどうかは、その版元の本の前年度の売上げ額で決まります。いかに講談社が日本最大手の出版社であろうとも、アメリカではまだまだ平台には並べてもらえない程度の売上しかない出版社だということなのです。
日本で売れているものが、海外で売れるとは限らない
6月に日本独立作家同盟の招きで「日本の作家よ、世界に羽ばたけ!」という講演をしましたが、その時にも村上さんのことは「特例」として紹介しました。「日本ではほとんど(公共の場やマスコミに)姿を現しませんが、アメリカでは他の著者と同様、作品を出すごとに、朗読会やサイン会もこなしています。アメリカ人の著者なら誰でも当たり前にやることをやっているわけです」と(この講演録はボイジャーから小冊子と電子書籍になっています)。
今回の『職業としての小説家』でも、村上さんは「……僕が海外でできるだけ人前に出るように努めているのは、『日本人作家としての責務』をある程度進んで引き受けなくてはならないという自覚をそれなりに持っているからです」と述べています。この本では国内に向けて自分の読者と、小説家を目指す次世代の人たちへの、その責務が果たされていると感じました。
彼はまた、欧米でも読まれる作家となったもうひとつの要因として、こう書いています。
僕が「日本人の作家」であるという事実をテクニカルな意味合いで棚上げし、アメリカ人の作家と同じ土俵に立ってやっていこうと、最初に決心したことにあるのではないかと思います。(中略)つまり外国語で小説を書く外国人作家としてではなく、アメリカの作家たちと同じグラウンドに立ち、彼らと同じルールでプレイするわけです。まずそういうシステムをこちらでしっかり設定しました。
海外の書籍マーケットを日本のそれの延長上にあるものと同じと捉え、日本で売れてるんだから海外でも売れるはず、というのは半分アタリで、半分はハズレです。どの国でどんなジャンルの本がよく読まれているのか? というのは文芸エージェントとして私がつねに追ってきたトピックです。時間をかけて各国のベストセラー・チャートをにらみつつ、現地の編集者の人たちと話をすると、当然のように文化の違いからくる温度差があることがわかります。国内で栄えある文学賞をとったから、著者が有名人だから、日本では人気があるから……という理由だけでは不十分なのです。
そろそろ戦略的な体制を整えることが必要
日本のコンテンツを海外に向けて発信する場合も同じことが言えます。「クール・ジャパン」と称してこっちが消費してもらいたいコンテンツを、大枚はたいて一様に、一方的に送り出しても、たいした効果はありません。考えてみれば「日本が好きだから日本のものならアニメも、歌舞伎も、ラーメンも、富士山も、メイド喫茶も、京都散策も、コスプレも、あんこも好き」という人はいないでしょうから。日本にしかない独特のコンテンツだから、それが珍しくて、ニッチにぴったり収まることもあるでしょうし、SFやファンタジーなど、すでに親しまれているジャンルに入るけれど、日本発のストーリーであるというヒネリが入ったために、すんなり受け入れられながらも新鮮味が加わるコンテンツもあるでしょう。
どのテリトリー(海外翻訳版権は国別ではなく、英語圏、スペイン語圏という風に、言語範囲が単位になることが多いのでこういう言い方をします)で、どういうジャンルなら、日本の作品が新鮮に感じられるのか、あるいは読者が慣れ親しんでいるカテゴリーなので日本の作品でも抵抗が少ないのか、さらには、どの出版社にどんな編集者がいて、どんな作品を出しているのかを知ることが、海外に版権を売るための着実なステップとなります。
いくらグローバルだ、海外だと大きなことを言っても「この本は面白い。自分たちの国でも出してみたい」と思うのは編集者個人の「眼力」によるところが大きく、それを伝えるのは送り手側にいるエージェントの個人的な「熱意」であることも真実なのです。ただ、海外には日本語で作品を評価できるエージェントも編集者もいないので、その部分をこちらで「底上げ」して同じ土俵に立たせないと、どうしても広がっていかないのです。
これまで機会があるごとに欧米編集者からの視点で「海外のマーケットではこういうものが売れます。こういう本が求められています」と訴えてきました。今後はさらに、海外に版権を売っていくために戦略的にどういう体制を整えればよいのかを、発信側である日本のコンテンツ業界の人たちといっしょに考えていきたいと思っています。
執筆者紹介
- 文芸エージェント。講談社アメリカやランダムハウス講談社を経て独立し、ニューヨークでLingual Literary Agencyとして日本の著者・著作を海外に広めるべく活動。アメリカ出版界の裏事情や電子書籍の動向を個人ブログ「本とマンハッタン Books and the City」などで継続的にレポートしている。著書 『ルポ 電子書籍大国アメリカ』(アスキー新書)、共著『世界の夢の本屋さん』(エクスナレッジ)、『コルクを抜く』(ボイジャー、電子書籍のみ)、『日本の作家よ、世界に羽ばたけ!』(ボイジャー、小冊子と電子書籍)、共訳書にクレイグ・モド『ぼくらの時代の本』(ボイジャー)がある。
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