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電子時代の読書~過去そして未来

人は電子書籍を買わない

私が電子書籍(eBook)の世界に足を踏み入れたのは、2002年にPalm Digital Mediaで働き始めたことがきっかけです。この会社は当初はPeanut Pressという名前で、「本を電子的に出版する」というシンプルな計画のために1998年に設立されました。この計画が発表されるとただちに、技術的にも、経済的にも、政治的にも、蜂の巣をつついたような大騒ぎが起きました。

さいわい多少とも先見の明があったのか、この会社は数年後には「世界最大の電子書店」を自称するまでに成長します。しかし、ドットコム・バブルの最盛期に設立されたにもかかわらず、Peanut Pressの創業者は早々と会社の支配権を失ってしまいます。今から思えばこの事件は、今日にいたるまで真実として通用する、ひとつのサインを送っていました。すなわち「人は電子書籍を買わない」のです。

無能な経営者たちのせいで、Peanut Pressは実質的に破綻しました。まずは会社の成長が止まり、続いて社屋を数百マイルはなれた場所に移すことで、創業期からの優秀な社員を全員失ったのです。かつて名を馳せたこの電子書店は、eReader.comという名前で生き延びましたが、2008年1月、ついに競争相手のFictionwise.comに買収されることになりました。

Fictionwiseの経営陣は、Peanut Pressのときとは違い、電子書籍についての現実的な知識と関心をもっていました。しかし、eReader.comが「世界最大の電子書店」を名乗っていたこのとき、より大きな競争相手(すなわちアマゾン)が登場してきたのです。

eReaderの物語の悲しい結末は、彼らや私だけのものではありません。私がさきほど、「人は電子書籍を買わない」と現在形で申し上げたことを思い出してください。10年たった今でも、この言葉は真実として通用するのです。当時の投資家も、Peanut Pressをダメにしてしまった経営者も、それを信じませんでした。そしていまも電子書籍業界の関係者は誰一人として、このことを信じていないのです。残されたのは消費者です。電子書籍業界から明瞭なビジョンが提供されなかったために、彼らの電子書籍に対する拒否反応はますます強固になっていったのです。

OS/2やAmigaの興亡を見てきたこのサイト(Ars Technica)の読者には、以上の文章の意味がよくおわかりだと思います。1996年前後にMactintoshユーザーがふりまいていた険悪な雰囲気をご記憶でしょう。そう、あれは単に「自分たちの情熱が愚かな一般大衆に理解されない」というヒガミ根性にすぎなかったのです。

こうしたヒガミ根性は普通、落ち目になったときの運動や商品に見られるものです。しかし、ときにはなかなか市場が立ち上がらないときに出現することもあります。そして私には、いまの電子書籍に、まさにこれが起きているように思えるのです。

過去十年間の電子書籍市場の成長速度は、耐え難いほど遅く感じられませんでしたか? それはあまりにも理不尽だと思えませんでしたか? そう、私も実際に古株のMacユーザーのような欲求不満を感じていました。ここに、「電子書籍」という成功間違いなしの素晴らしいアイデアがあるのに、消費者の間に広まった無理解と、意志を欠いた大企業の怠慢が、ことあるごとにその成功を阻んできたのだと。

自分の言葉で巨大企業を動かせる、などと言うつもりはありません。ただ、私には電子書籍に関して、胸から吐き出しておきたいことがたくさんあるのです。ですからこの文章は、ときには新聞の論説風だったり、論争的だったり、ときに怒鳴り声のような調子にさえなるでしょう。しかし、ここからぜひ、多少なりと教訓を読み取ってもらえればと思います。もし、いまはまだ腑に落ちないとしても、少なくともアップル社の話に関して言えば、最後には納得していただけると思います。

もし「本」が別の名前だったなら

まず、なにより問題なのは「電子書籍(eBook)」という名前です。紙の出版の世界で「本」といえば、コンテンツとメディアの両方を指しています。一方、デジタルの世界で「電子書籍」といえば、コンテンツのみを指すことになっていますよね? でももちろん、そのような意味の使い分けがうまくいくはずがありません。「電子書籍」はデジタルの世界でも、紙の本と同様にコンテンツとメディアの両方を指す、という思い込みがすべての混乱のもとなのです。

音楽のように、コンテンツとメディアが区別されている業界では、電子書籍のような混乱はみられません。メディアがレコードから8トラック、カセットテープ、CD、MP3と移り変わっても、音楽は音楽です。音楽こそが製品であり、消費者が買うのも音楽です。メディアは乗り物にすぎず、いつでも乗り捨て可能なのです。よりすぐれた、より安い、より速い、より便利なメディアが現れるたび、コンテンツの所有者の意向がどうであろうと、音楽は新しいメディアへと移行するのです。

しかし「本」はそういうわけにはいきません。本という言葉には、まだいろいろな「しがらみ」がついてまわります。大判の分厚い学術書も、持ち運びやすいペーパーバックも、ごく普通のハードカバーも、すべて同様に「本」とみなされるのです。音楽界で起きたコンテンツとメディアの分離を強く印象づけるような形態上の大きな断絶は、文章の世界では現代においても、これまで一度も起きたことがありませんでした。

紙というメディアにしっかりと結びついた表現ジャンルがいくつもあります。たとえば小説、伝記、歴史書などです。「私は本を書いています」「旅行に行くときは本をもって行きなさい」「私は本屋で働いています」といった言葉を聞くと、どんなイメージが脳裏に浮かびますか? このサイトに掲載されているような記事が載っている本だってあるのに、上の三つの例文で「本」という言葉を目にしたとき人々の心に浮かぶのは、その手の本ではありません。私の言う「しがらみ」とは、そのことです。

しかし、小難しいことを挙げつらっているだけだと思われるといけないので、「電子書籍」に関してよく取りざたされる不満のなかから、いくつか実例を挙げて検討していきましょう。

一般の人々が電子書籍に対して拒絶反応を抱く理由は、やまほどあります。おそらく驚かれることでしょうが、このサイトを読んでいるような技術オタクの人たちこそが、彼らが抱く不満の「犯人」なのです。

よくある不満の理由を、以下に挙げましょう。

1) 画面
「小説を画面上で最後まで読みとおすなんてできっこないよ」
「紙の方がコントラスト比が高いので良い」
「目が疲れる!目が疲れる!」
「うーん。1200dpiのスクリーンができたら起こして…」

ごく一部の例外をのぞき、読書媒体として見た場合に、コンピュータの「画面」が「紙」より劣っているという批判は、技術的にいえば当を得たものです。しかし、私はそのような批判は、ずっと前に意味をなくしていると考えています。

この種の不満が無効であることは、先進国の人々が画面上で文章を読んでいる時間の長さを考えればわかります。文字どおり何億もの人々が、貧弱な画面上でも文章を読むことは可能であり、それどころか好んで読もうとすることを証明しています。初期の携帯電話やポケベルの画面上で交わされたテキストメッセージのことを考えてみてください。それはごく短い文章じゃないか、と反論する人もいるでしょう。しかし賭けてもいいですが、現在の平均的なアメリカ人にとって、今年一年の間に本で読む文字の量より、携帯で読む文字のほうが遙かに多いはずです。

それに、携帯電話は「ウェブ」という巨大な氷山の一角にすぎません。アメリカをはじめとする先進国の人々が、ネットに接続可能な端末を通して読んでいるウェブサイトの文字の総数と、同じ人々が同時期に紙の本で読んでいる文字の総数を比べたら、結果はどうなるでしょう?

人は明らかに、画面上で文字を読む意思をもっています。一日中コンピュータの画面の前に座っているオフィス労働者は、古ぼけた性能の悪いディスプレイの画面上で、醜くてドットの大きな文字で書かれた文章を、週40時間の労働時間の間にやまほど読み、家に帰れば楽しみのためにプライベートでも読んでいます。わざわざPDFの有料版をプリントアウトして読んでいるのでなければ、この記事を読んでいるあなたもその一人でしょう。

もう一度言わせてください。「人は画面上で文字を読む」のです。それは、紙の視覚的優位性とはなんの関係もないことです。長時間つづけて文字を読めるだけの水準を、コンピュータ画面はとっくの昔に達成しています。でもだからといって、これからは小説をはじめとする伝統的な「本」を、画面上で読むようになるかというと、話はちょっと違います。ここで私が言いたいのは、画面についての技術的な議論を終わらせることです。

だからといって私は、「人は小説さえも画面で読みたがっている」と言いたいわけでもありません。人々が画面で小説を読みたがらない理由は、そう思い込んでいる人が多いのとは反対に、技術的な問題とはまったく関係ないのだ、と言いたいだけなのです(もちろん、ここで私が話をしているのは、「統計上の平均的な人々」のことです。統計上の誤差の範囲で、そうでない人がいることはたしかです)。

誰しも頭ではこのことを理解しているはずですが、従来の本以外の上で文字を読む行為を、「読書」とみなすことに対するためらいは、現実的にとても大きいのです。その事実に対して論理的な説明を求めるあまり(とくにオタク的な人々によって)、画面の技術と関連付けられたニセの合理化が生まれてしまいました。技術オタクほど、技術のもつ限界のことを知りすぎているからです。

2)読書用端末
不満と同様、読書用端末に対しては、次のような声をよく聞きます。
「大きすぎる」
「小さすぎる」
「紙のように巻けない」
「壊すのが怖い」
「紙の本なら、電池切れすることもないのに」

「電子書籍」という言葉を聞いたこともないような人に、その話を初めてすると、漠然と「本のようなかたちをした電子機器」を思い浮かべるのが普通です。実際にそうした形の機器が売られており、「電子書籍」と「読書用端末」の違いを考慮せずにマーケティングが行われているために、多少なりと電子書籍についての知識をもっている消費者の間でさえ、こうした偏見が強化されています。

電子書籍を物理的な本になぞらえることを、業界がこぞって推奨しているのが現状です。その結果、本のようなプロポーションをもち、「電子インク(電子ペーパー)」という名の技術が採用され、カバーのようなものまでがついた端末がたくさん生まれています。このような形で端末とコンテンツの心理的なつながりが補強された結果、読書用端末への不満が、電子書籍全般に対する不満と同一視されるようになってしまいました。

それに、たしかに読書用端末には不満足な点が多々あります。このときも真っ先に槍玉にあがるのは画面です。この件についてはすでに論じましたが、画角や耐久性、バッテリーの持続に対する影響への不満はひきもきりません。さらに加えて大きさや重さ、値段にいたるまでバランスのとれた製品を開発するのは困難なことです。読書用端末にどこか一つでも欠点があると、「電子書籍」という考え全体に対する消費者の心を冷えこませてしまうのです。

人が長時間にわたり、携帯機器や固定機器の画面で大量の文章を読みたがること、そして実際に読むのは可能であることは、すでに証明されています。携帯機器の場合には、目覚めた瞬間から、そうした機器をもち歩いていさえするのです。ところが、「電子書籍」と名のついた何かを買おうかどうか考えはじめた途端、たんなる「読書用端末」と、それが実現すべき「電子書籍」というコンセプトを同一視してしまい、態度が一変してしまうのです。

読書用端末を売るのは難しい

多くの人が、電子書籍をコンテンツとしてではなく、「画面とバッテリーのついた本のような機器」だと思い込んでしまったように、ビジネスの世界でもまったく同じことが起きました。なぜなら、ビジネスの世界はまさに一般の人たちで成り立っているからです。

消費者にもビジネスを行う人たちにも、読書用端末こそが「電子書籍」問題の解答だと思われていました。電子書籍の草創期だった1990年代に、形も大きさも価格もまちまちで、それぞれ異なる技術を用いた読書用端末の機器がいくつも発売されました。しかし、今となってはその業界にいた人でさえ、それらの名前をすべて思い出すのは困難でしょう。

当時のPeanut Pressでも、読書用端末のことをみんなでバカにしていたものです。100ドル以上するうえ、電子書籍を読むたびに毎回お金を支払わなくてはならなかった2000年前後の機器は、まったく売れませんでした。これらの様子を最初から見ていたPeanut Pressの人々は、賢明なことに、最初から読者がもっている機器に向けてソフトウェアの開発を行う決断をしたわけです。

そのころ、PDA(携帯型デジタル機器)のなかで、CPUパワー、大きさ、重さ、画面技術などのバランスがよく、市場にも浸透していた(これがもっとも重要なことです)のはPalm社のPDAです。ですから、これがもっとも有望なターゲットでした。

近年の読書用端末とくらべると、Palm社のPDAは、読書のプラットフォームとして不適切のように思えます。初期のPalm 社のPDAは小さく、画面解像度も今の基準からすると想像もつかないほど粗い160×160ピクセルでした。これでは極小のフォント(それ自体も問題でしたが)を使っても、ごくわずかのセンテンスしか画面に表示できません。

技術的にはずっと優勢な読書用端末が興亡を繰り返すなかで、最後まで勝ち残れたのは、人気のあるPDA(のちには携帯電話)の波に乗った一握りの企業だけでした。

皮肉だったのは、本のような形をした読書用端末の開発を促進した力が、同時に消費者の電子書籍に対する購買意欲をそぐ力でもあったことです。ビジネスの世界の人たちは、従来の「本」という言葉が暗示する物理的な形態にとらわれてしまい、ひたすら本のような形をした機器を開発・販売しました。これまでの「物理的で・アナログで・紙でできた本」と比較される、そのような機器を提示された消費者の方は、ペーパーバックであれば10ドル以下で買える本のために、何百ドルもする機器に金を払う価値はない、という当然の判断をくだしました。

(もちろん、みなさんの多くがいま、キンドルのことを思い浮かべていると思います。でも忘れないでください。ここまでのところでは、私は現在や未来ではなく、過去について話をしています。まもなくそこにたどり着きますので、もう少しお待ちを)

本の電子化は不可避である

集団行動の分析に論理や理性をストレートに適用しても、無駄に終わることが多いものです。「画面の質」や「メディアとコンテンツの分離」の議論は、電子書籍をめぐる「不都合な真実」の前では、何の役にも立ちません。我々にとっての「不都合な真実」とは、おおまかにいって、「人は電子書籍を買わない」「人は電子書籍を欲しがらない」「人は本のように長い文章を画面上で読みたがらない」ということです。別の言葉で言い換えるなら、彼らは昔ながらの「本」を愛しているのです。

しかしながら、「真実」は愛書家にも厳しい知らせを伝えます。いくら人からは愛されている血統書付きの「種」でも、情報流通の技術において劣っていては、生存競争に勝ち抜くことはできません。

同じことがこれまでに何度も起こりました。誰一人として自分の意見を変えなくても、変化は起きるのです。率直に言いましょう、「人はいつか死ぬ」のです。人類の進歩にとって「死」は、もっとも重要な原動力なのかもしれません。科学界のように理性的なコミュニティーでさえ、新たな理論が学界の主流を占めるまでに、一世代かかることが多いのです。テキストベースのメディアに対する消費者の嗜好を、より高い水準にまで引き上げるには、それ以上の時間がかかることでしょう。

古い世代が死に絶えないと変化は起きないというのでは、ロマンチックとは言い難いです。世代交代がなくても新しい技術が浸透した例は、これまでにもたくさんあります。しかし「本」に限っては、古い世代が最後の砦を死守しています。私が言いたいのは、世代交代の効果を考え合わせれば、長期的な結果はおのずと決まっている、ということです。

次の世代の人々も、親世代から多少は本をめぐる「偏見」を引き継ぐことでしょうが、それでも新しい技術がもたらすメリットを、いずれは自分たちの価値基準で判断できるようになります。そして、同じことがその後のすべての世代で起こるのです。電子書籍に関して言えば、メリットがあることはすっかり明らかです。以下に挙げるメリットは、かつてメディアの移行を成功させる原動力となったものと同じなのです。

1)便利さ
1000曲がポケットの中に入ったのと同様、100万冊がポケットの中に入る。読みたい本をすべて持ち歩け、栞がなくなる心配もない。ページの角を折る必要もなく、裂けたり破れたり汚れたページもない。本棚を置くスペースも必要なく、本屋に出かける必要もない。買ったらすぐに読み始められ、いつどこでも片手で読書が可能。読むのをやめても、そのページを忘れる可能性もない。

2)パワー
テキストの即時検索が可能。どんな単語の意味も1回のタップかクリックで調べがつく。紙を傷めることなく何回でもハイライトを加えたり消したりできる。ページの余白の大きさにかかわりなく注釈が可能。文章内にいくつでもブックマークやリンクを貼ることが可能。

3)潜在的な可能性
上記のすべての特徴を、誰とでもいいので無限回数だけ消費し、シェアし、リミックスせよ。

よくできました。でもほんとにこれで十分でしょうか。これらがメディアの移行を必然的に促進するというと、ちょっと大げさに聞こえるかもしれません。よりよい見晴らしを得るため、あなたの人生のなかで過去に起きた、他のメディアの移行を思い出してみましょう。

CDがレコードやカセットテープを追いやったのは、それらにくらべてどんな利点があったからでしょう? オタクは音質の良さを取り上げていました(アナログレコードのファンにとっては、議論の余地がありましたが)。デジタルコピーができるという理由もよく挙げられますが、CDが普及しはじめた頃はまだ、デジタルコピーは一般的ではありませんでした。音質についてさらに言えば、そのことが大衆市場に訴えたとは言い難いのです(理由はすぐあとで述べます)。

CDのもっとも重要な特徴は、ごくごく平凡なことでした。それは、レコードに比べてずっと丈夫で、小さかったということです。早送りや巻き戻しや選曲も、レコードよりずっと簡単にできました(レコード会社は、消費者が手持ちの音楽をすべて買い直すのを待ち切れませんでしたが、メディアの移行の時期によくある話です)。音質の良さや、近未来性を感じさせるキラキラした見かけはたんなるおまけです。デジタルコピーは、この時点ではまだSFの世界の話でしかありません。なにしろコンピューターのRAMがまだキロバイト単位で測られ、「CD-ROMを焼く」機器もまだ発明されていなかった時代なのですから。

もう一つのメディアの移行の例として、CDからデジタルダウンロードへの場合を検証してみましょう。AAC(Advanced Audio Coding)やMP3は、CDとくらべてどんな利点があったのでしょうか。デジタルダウンロードであれば、家から出ることなく音楽を買うことができます。アルバムを収めるための物理的なスペースも必要ありません。利点として挙げられるのは、せいぜいそれくらいです。

音質はどうでしょう?CDからダウンロードへのメディア移行では、音質はじつは低下しています。消費者は歌詞の書いてあるライナーノートももらえませんし、パッケージのアートワークも品質が低下しました。これを本当に進歩と言えるのでしょうか?  ええ。ほとんどの消費者は、その質問に「イエス」と答えます。「便利さ」や「簡単に得られる満足感」の力は、それほど偉大なのです。

それではここで電子書籍のもつ利点を、もう一度見直してください。電子書籍は本とくらべて、ずっと便利でしょう? まだ納得できない人のために、ダメ押しの喩え話があります。電子書籍の普及が不可避であることへの否定的な議論を文章にして、そのなかの「本」という語を「馬車」に、「電子書籍」を「自動車」に、それぞれ置き換えてみてください。

「本がなくなることはない」
そのとおり、馬車はいまだに存在します。

「本のもっている利点は、電子書籍には移植できない」
そのとおり、馬車は自動車が走れないような悪路を走ることができます。すべての道が舗装されているわけではないですし、またそうされるべきでもありません。

「本がもたらす感覚的/精神的/官能的な経験を、電子書籍は提供することはできない」
そのとおり、馬車が提供できる経験(匂いや、肌触りや、ドキドキする感じなど、他の生き物とともに過ごすことで得られる感覚)を自動車が提供することはできません。

とはいえ、今日、馬車で仕事に行った人は誰もいないでしょう。私だってそうです。「馬ぬきの車には乗らん!」と言っていた人もたくさんいたでしょうが、そうした人たちはすでに死んでしまいました。

DRMにはまったく意味がない

読者大衆の不合理で頑固な趣味を批判することに、言葉を費やしすぎていると思うかもしれません。しかし安心してください。真に責めを負うべき人たちは他にいると私は信じています。それは悪党どもにはおなじみの、あまりにも月並みなやり口なのです。その話は聞いたことがあるよ、という方がいたら私を止めてください。

自分たちに都合がよいように、しっかりと構築されたビジネスモデルの実りを享受している一連のメディア企業の経営者が、市場の風景を一変させかねない、新たなデジタルテクノロジーの登場に直面したとします。彼らははじめのうち、この新しいテクノロジーを無視します。この戦術が受け入れがたいものだと判明してからかなりの時間がたつと、メディア企業の経営者たちは、デジタル形式でコンテンツを提供してほしいと要望しつづけてきたユーザーの声に、嫌々ながら応えます。でもそのときのデジタルコンテンツの流通は、流通業者に強引に押し付けたガチガチのデジタル著作権管理(DRM)のもとで行われることになります。

こうしたDRMはメディア企業の経営者の権利を守り、彼らのコンテンツが完全なデジタルコピーとして違法に流通するのを防ぐことを目的としています。でも、実際には違法コピーを防ぐ上でDRMは何の効果もないのです。どんなデジタルメディアでも、需要のあるコンテンツであれば、必ず無料の違法コピーが流通しています。DRMがクラッキングされる場合もあれば、プロテクトのかかっていないデジタルのデータ源からのコピーもあり、アナログのデータ源から新たにデジタルコピーがなされる場合もあります。DRMは正規の顧客にフラストレーションを与え、生まれたばかりのデジタル流通の市場を窒息させるぐらいにしか役に立ちません。

テクノロジー分野の問題を理解している多くの人にとっては、これはもう旧聞に属する話かもしれません。でも、一般の人たちにDRMの無意味さを説明しなければならない場合に備えて、私がこれまで聞いたなかで最善の説明法を、ここでざっとご紹介しましょう。

学者たちの世界では、コミュニケーションのさまざまな方法について説明する場合、「アリス」と「ボブ」という架空のキャラクターをよく使います。アリスはボブにメッセージを届けようとするのですが、盗聴者(eavesdropper)の略称である「イヴ」という名をもつ敵が、メッセージの到着を邪魔するというのが一般的な設定です。

この手法を用いて、アリスとボブの喩えで各種の暗号化の技術を説明することもできます。たとえば、アリスとボブが別れるまえに秘密の合言葉を決めておけば、イヴに知られることなく、自分たちだけでメッセージを暗号化/解読することができます。あるいはアリスとボブがそれぞれ「公開鍵」をもつという暗号法をつかうこともできます。この暗号法では、アリスとボブは事前に合言葉を打ち合わせて共有する必要がありません。これらの概念のことは、あなた自身と聴衆にとってちょうどいい程度に説明しておいてください。

ここまでの説明でも、専門用語が多すぎて一般の人は頭が混乱してくるのが普通です。それでも多くの人は、情報を守るのに役立つ、きわめて強力なツールがあるに違いないと思い込んでいます。そこであなたは、このあたりでDRMとデジタルメディアの流通に話を戻す必要があります。そろそろ必殺の一撃をお見舞いしなければなりません。

あなたの聴衆はここまでの話から、DRMの目的は消費者が自分の購入したデジタルコンテンツを違法コピーできないようにすることだと理解しています。アリスとボブが登場する暗号についての長い説明を聞いたあとなので、聴衆たちは、違法な消費者がイヴの役を演じるためには、保護された情報を手に入れるために巧みに計算をして、複雑な暗号を解く必要があると思うことでしょう。しかし、話はここで終わりではありません。

じつは消費者はボブでもあるのです。コンテンツが歌、映像、文章のいずれであろうと、ボブはメッセージの正当な受信者なのです。ですから彼には暗号を解読し、コンテンツを消費するのに必要な手がかりを得る資格があるわけです!

このあたりで一般の人々の頭にかかっていた靄が晴れ、DRMがそもそも抱えている矛盾について理解してくれたなら、しめたものです。

さて、技術に詳しい人の場合、ここで受信者がコンピューターという機械である場合と、人間である場合とのささいな違いを強調しがちです。しかし、この場合は一般の人の直感の方が正しいのです。両者の違いは、人間の場合、解読法の発見までに時間が少し余計にかかるということにすぎません。しかもこの情報は、消費者がつねに持っているものです。いくら数学的やアルゴリズム的に鉄壁な暗号であっても、まったく意味がありません。あとに残るのは、ぼんやりとした安心感だけです(あなたが「常時ネットワーク接続環境下におけるDRMなんてディストピアだ」と感じるなら、その意見は質疑応答の時間までとっておいてください。いまはこの議論を、現在と近未来の話に絞りたいのです)。

ニュアンスに多少の違いはあれ、大きな図式はいまも同じです。消費者向けのデジタルメディア流通において、DRMという考え方は数学的にも、技術的にも、そして知的にも行き詰まってしまった試みです。DRMは違法コピー防止という本来の目的にはまったく役に立ちません。むしろデメリットのほうが大問題です。消費者が合法的に購入したコンテンツに対して行いうる法的に正当性のある権利までが、民事罰や刑事罰の対象として制限されてしまっているのです。

苦難から何も学ばなかった人たち

メディア企業の経営者たちの話に戻りましょう。音楽業界にレコードレーベルがあり、映画業界に撮影スタジオがあるように、本をはじめとする印刷メディアには出版社があります。しかし音楽業界や映画業界の人が出版業界をみれば、自分たちが一歩先んじていると感じることでしょう。

出版業界は音楽や映画の業界が一足先に経験した苦しみから、なんらかの教訓を得たでしょうか。ある意味で、出版業界も教訓を得ました。ただし不幸なことに、出版業界が学んだものは「恐怖」だったのです。かつてナップスターが登場したときに音楽業界に起きたことを見て、出版社は心底ふるえあがりました。

事実、このときに苦難を味わった音楽会社の重役たち(彼らこそ「デジタル音楽戦争」の戦傷者たちと言えるでしょう)の幾人かは出版業界に席を移し、デジタル版PTSD(心的外傷後ストレス障害)とビジネスモデルの崩壊という恐怖の物語をこの業界にもちこみました。その結果、「どこもかしこもDRMだらけ」あるいは「デジタル流通には絶対反対」という雰囲気が生まれてしまいました。

デジタルではない伝統的な出版業界の仕組みを理解した後には、このような態度はなおさら奇妙に思えます。出版業界でも、音楽や映画の業界と同様、作家(Content Creator)の取り分は驚くほど少なく、本を物理的に製造・流通させるシステムがその上に乗っかっています。しかも本の場合、このうえにさらにもう一階層が存在します。Salon.comの記事を引用してこの件を説明してみましょう。

本は書店に対し、委託販売のようなかたちで売られています。書店は注文した本の代金を支払いますが、売れ残った本はすべて返品でき、その分の代金は全額払い戻しされます(ただし返品の運送代は書店側が払うのが普通です)。このような商慣習は大恐慌時代に始まりました。このとき出版社は、不況下にあってもなんとか本を売り続けようとしたのです。そしてこの慣習は、廃止を求める根強い意見にもかかわらず、今日まで続いてきました。

これは次のことを意味します。出版社が100冊の本を書店に出荷し、書店では50冊しか売れなかった場合、残った本は出版社に返品され、書店にはその代金が返却されます(売れ残りの本は廃棄されますが、最近は「ゾッキ本」の業者を通して書店に割引価格で売られることも増えています)。返品分にかかると推定されるコストは、本の価格に織り込まれています。

「本を買う読者は、手にしている本の代金だけでなく、売れ残ったり廃棄されたりする本の費用も支払っているのです」とランダムハウス社の元編集長ジェイソン・エプスタイン氏は言います。

出版業界の核心に対する冷静な分析を求めている方は、ぜひ実際の記事にあたって全文を参照してください。出版業界の商慣習は、外部の者には複雑怪奇にみえますが、まさにそれがこの記事の論点でもあります。デジタル以前の出版業界の状況を理解したい人は熟読することをお奨めします。

次に、こんなことを想像してみてください。電子書籍を扱う起業家が、出版社に本のデジタルコピーの小売販売の商談を持ち込んだとします。起業家の提案はシンプルです。出版社はデジタル版の本を提供する。電子書籍の起業家は、その本をさまざまな端末機器で読めるようにそれをフォーマット化し、ウェブサイト(ごく初期のネット以前の時代には、店頭におかれたスタンドなど)を通して販売するというものです。電子書籍が1冊売れるたび、起業家は希望小売価格の半額をロイヤルティとして出版社に支払います。

(実際の販売価格は、希望小売価格とはことなり、通常はそれよりはるかに安価であることに注目してください。たとえば店頭で12.99ドルで売られている本は、希望小売価格が20ドルかもしれません。その場合、50%のロイヤルティ契約だと、12.99ドルのうち10ドルが出版社に支払われ、残りの2.99ドルが電子書店の手取り収入になります。実売価格をもとにしたり、1冊ごとに決まった額を払う場合もありますが、希望小売価格に対するパーセンテージでロイヤルティを支払う取引はきわめて一般的であり、電子書籍の販売価格にあからさまな下限をおしつけています)

ところで、このビジネスモデルでは出版社にどんなコストが発生するでしょう? 本をデジタル化して生まれ変わらせ、電子書店に渡せるようにする際に、一度限りの固定費がかかるかもしれません。けれども出版社では、伝統的な印刷出版の工程に入る前に、これと同じような編集作業をすでに経ているはずです。それに近年は、ほとんどの著者が執筆を最初からデジタルのかたちで行っています。

さて、ほかに何かコストがかかるでしょうか? いいえ、これですべてです。出版社が電子ファイルを送ると、電子書店から毎月小切手が送られてくる、というわけです。電子書籍が1冊売れるたびにかかる追加コストはありません。印刷代も、倉庫代も、トラックや航空機での輸送にかかる代金も、なに一つ必要ないのです。事前の売上予測も必要ありませんし、外れたときに発生する在庫や、予測がどちらに間違っていた場合に起きる代金の未回収ともおさらばです。売れ残りの本を把握して数える必要もなければ、小売業者が廃棄の証拠にペーパーバックのカバーを切り取って、出版社に送り返す必要もありません(今日では本の廃棄の証拠として宣誓供述書が用いられているようですが、ムダとばかばかしさが僅かに減っただけです)

ひとことで言って、これらの条件は出版社にとって信じられないくらいよいものです。電子出版によって、出版社の利益構造は印刷出版業のモデルからソフトウェア産業のモデルへ、すなわち「一度コンテンツをつくったら、単品あたりの追加コストを一切かけず、いくらでも無限に売れる」モデルへと変化するのですから。

では、電子書籍のビジネスモデルの欠点はなんでしょう? 出版社は「違法コピーだ。音楽産業ではまさにそれが起きたじゃないか」と大声で主張するでしょう。そろそろ出版社の方々には、コンテンツのデジタル流通にヒステリーを起こしていては気づかない、もうひとつの現実をお目にかけようと思います。出版社が電子書籍に対してどんな方針をとるかにかかわらず、ひとたび出版された印刷本は、OCR(光学式読み取り機)を使ってデジタル化され、すでにインターネットに出回っているのです。人気のある本の場合は、集団でテキスト化の作業が行われる場合もあります(『ハリー・ポッター』最新巻の場合、全759ページのフォトコピーがどこからか漏れ、印刷本が正式に販売される前に、そこから書き起こされたテキストファイルが出回ってしまいました)。

ここまでの話をまとめてみると、電子書籍への取り組みは出版社にとっていいことばかりであり、悪いことはほとんどありません。懸念されている違法コピーの横行はすでに起きていますし、出版社が電子書籍にどんな方針で臨もうとこれからも横行するでしょうから、あまり関係ありません。

出版社の意図的なサボタージュ

実際に電子書籍の業者からコンテンツを提供するよう求められた場合、出版社はどう対応するでしょうか。まるきり無視されるか、せいぜい「DRMでコンテンツを保護しないかぎり、契約はしませんよ」と言われるのがオチです。私がPeanut Pressで経験した例では、実際にある出版社が防衛産業レベルの高額な予算をかけてDRM分析を行ったことがあります。われわれはこのテストに合格しましたが、もし落第していたらこの出版社からはコンテンツの提供を受けられないことになっていました(しかもそのテストときたら、十年先でもなければ実現しないようなタフな攻撃でした)。

コンテンツを提供するという契約が結ばれても、最上の作品は提供されないか、そこまであからさまではないにしても、非常に高い価格設定をすることで、事実上の提供拒否という場合がほとんどでした。人気小説の電子書籍化権の場合、出版社はときおり、とてつもない金額を前払いで要求してきます。もちろん『ハリー・ポッター』のような作品の電子書籍化権は、どれほど大金を積んでも得られません(実際、私たちもオファーしてみたのです)。

似たような話ですが、電子書籍の価格は、紙の本の値段をもとに出版社が決定することになっています。元の本がハードカバーでしか売られていない場合、電子書籍の希望小売価格もハードカバーと同じに設定されました。のちにペーパーバックが出版されると、やっと電子書籍も同じ価格まで値下げされるのです。しかし、この間に電子書籍自体には、なんの変更も加えられていません。需要と供給にもとづいて価格設定をすることは重要です。しかし、そのときに参考にすべきなのは、実際に売られる製品である電子書籍の需要と供給です。まったく事情のことなる紙の本を参考にしても意味がありません。

このような価格設定は、電子書籍を売るためではなく、それによる売上が紙のハードカバーの売上を食ってしまわないようにするためなのです。そのことに気づくまでは、なぜそんなことをするのか、まったく理解できないでしょう。ハードカバーと電子書籍のそれぞれから得られる利幅を考えれば、そんなことをすればするほど無意味なのです。しかしまあ、それが現状というわけです。

紙の本がハードカバーからペーパーバックになっても、電子書籍はそのままで置かれるという性質は、もう一つの問題を引き起こします。というのも、出版社から提供されたテキストデータには、よく誤植があるのです。しかも電子書籍の業者は誤植を自分では訂正できないのです。これは「テキストに対する一切の変更を禁止する」という契約項目があるためです。電子書籍の業者にできることは、出版社に訂正後のテキストを送ってくれと要請することだけです。しかし、こうした要請にすぐに反応してくれる出版社ばかりではありません。

ここまでの話が物語るのは、出版社は事実上、電子書籍を売ることをはじめからサボタージュしていた、ということです。意味のないDRM、理不尽な値段設定、「二級市民」のような扱いなどによって、これから芽吹こうとしている電子書籍ビジネスの足を引っ張ってばかりきたのです。コンテンツの所有者がここまで非協力的では、一般読者に電子書籍が普及することなどありえません。どんな人気小説でも、前払いの権利金をまかなえるだけの売上を電子書籍で得ることは無理でした。したがって、最上級のコンテンツを電子書籍として販売するようコンテンツの所有者を説得することなど、夢のまた夢でした。

アップルはなぜ電子書籍に参入しなかったのか?

Peanut Pressの話に戻りましょう。電子書籍の市場を拡大させるために共同歩調をとろうとしない出版社に対して、私たちは不満をつのらせていました。最上のコンテンツは提供してくれず、紙の本の価格で電子書籍の価格が決まるというロイヤルティの仕組みのもとでは、私たちは両手を縛られているにも等しい状態でした。

もちろん私たちは、つねに突破口を探していました。そのきっかけが出版社の側からやってこないのなら、私たちの側からアクションを起こすしかありません。最上のコンテンツもなく、魅力のない価格決定構造のもとでも、営業成績さえあげれば、出版社との力関係を改善できるのではないかと思っていたのです。

しかし、情勢は良くありませんでした。出版社との問題だけでなく、ハードウェアまわりにも問題があったのです。PDAの販売数はどんどん下落し、携帯電話こそが次の大衆読書市場に向けたプラットフォームとして有望だとみなされていました。しかしその時点では、携帯電話のスペックは PDAと比べてはるかに劣っていました。いわゆる「スマートフォン」が市場で力をもつようになるのは、もっと後のことです。

ちょうどその頃、iPodの人気が出始めていました。Peanut Pressのソフトウェア開発者のほとんどは昔からのMacユーザーだったので、当然iPodはすでに持っていました。しかし iPodが電子読書のプラットフォームとして有望株になったのは、Macユーザー以外の膨大な人々に浸透してからの話です。

2003年にアップルはiTunes Music Storeを開店し、iPod向けに音楽を売りはじめました。このときアップルはAudible社と提携し、オーディオブックも販売しました。知らず知らずのうちに、アップルは電子書籍市場を完全に支配できる立場にいたのです。

次のようなことがすべて、私たちの目の前で起きました。まず、画面サイズと読みやすさにおいて、長時間の読書に耐えうる最低水準をクリアし、急速に市場に浸透しつつある端末(iPod)が登場しました。次ぎにユーザー全員が使用しているソフトウェア(iTunes)を通じて、デジタル流通網へのアクセスが開かれました。最後に、小さな独立レーベルや人気のない作品だけでなく、大手レーベルのもっとも人気のあるコンテンツさえもが取引の対象になりました。

Peanut Press社のMacユーザーたちは、未来への道が白日の下にさらされたように感じました。アップルだけが、すべてを手中に収めたに思えたのです。大衆市場向け読書用端末になりうるiPodを、すでに多くの人が所有していました、購入意欲のある何百万もの顧客を抱えたオンラインストア(iTunes Store)もありました。控えめに言ってもデジタルにはいささか疎いと思われる、コンテンツ所有者たちとの交渉だけが残されていましたが、一社そしてまた一社とドミノ倒しが起きていきました。すべては不可避のプロセスのように見えたのです。電子書籍の市場は、アップルが独占するためにあるようにみえました。

ところが、ここでおかしなことがおこりました。アップルは電子書籍市場に手を伸ばそうとしなかったのです。その結果、Peanut Pressをはじめとする電子書籍の初期の起業家たちは姿を消していきました。iPodは、それまでのすべてのPDAを笑い飛ばすような、ものすごい売上を記録しました。にもかかわらず、アップルは動こうとしませんでした。アップル以外の誰も、この世界に飛び込もうとするものはおらず、結果として電子書籍の市場全体が失速してしまいました。

このときから電子書籍の市場は暗黒時代に入ります。これは90パーセントの市場シェアを誇ったInternet Explorer 6が、5年間に一度もメジャーアップデートをしなかった時期に起きたことに似ています。十分な可能性を秘めていながら、市場において目に見える進展を遂げることができなかったのです。なぜなら、事業を前進させるべき人たちが、そのことに失敗したばかりか、自分たちより大きな力の登場によって無力化されてしまったからです。

アップルは電子書籍のなにが不満だったのでしょう? 彼らは電子書籍が自社の事業とうまく噛み合うことをもちろん知っていました。この件について、最近「ニューヨーク・タイムズ」に掲載されたスティーブ・ジョブズのインタビュー記事が明確な答えを出しています。

ジョブスはアマゾンのキンドルという読書端末も含め、この業界を広い目で観察した結果、アメリカ人が読書をしなくなった今日では大きな成功をおさめることはないだろう、と述べた。

「その読書端末が製品として良いか悪いかは関係ない。なにしろ、いまは誰も本を読もうとしないんだから」とジョブスは言う。「アメリカ人の40パーセントは、過去1年間に1冊以下しか本を読んでいない。人々が読書をしなくなったいま、(電子書籍という)コンセプトは最初から組立て直さなければならない」

この発言は、繰り返し起こるアップルの製品開発プロセスの一例だと考えるしかありません。実際、キンドルの大成功(これについてはすぐあとで述べます)と、過去一年ほどの電子書籍の(相対的なものとはいえ)ブーム再燃のあとでは、そう見なすのが妥当だと私は考えています。

この発言を額面どおりに受けとめると、アップルが電子書籍市場を過去何年もの間、無視し続けた理由がわかります。簡単に言うと、アップルにとっては小さすぎる市場だったのです。アップルはiTunes Storeにオーディオブックを提供しているAudibleをいまだに買収していません。これはアップルらしくない動きです。まるで(携帯用ブラウザの開発企業である)Pixo社に、iPhone OSの開発を委託するようなものですから。

初期の電子書籍企業は、どん底から紙の本の市場を見上げていました。その位置から見ると、本の市場は広大で豊かに見えたものです。しかしアップルは我々とは対照的に、音楽市場の頂点からこの市場を見下ろしていました。アップルから見れば、紙の出版の世界をすべてひっくるめても、モグラの掘った土の山のように、取るに足らない市場規模なのです。かくして電子書籍市場の王位継承者となると思われたアップルは、この市場から目を逸らせてしまいました。しかし、この業界における王座の空白が永遠に続くわけはありません。

電子書籍の現在

現在の電子書籍市場がやっていることは、映画やテレビの業界でよく使われる言葉を借りれば、古い電子書籍市場の「焼き直し」です。いくつかの点では事情は完全に異なっているのですが、基本的な部分では依然として同じことを反復しているのです

明らかに変化している面もあります。iTunes storeが全米一の音楽の小売店になってしまった現在、デジタルメディア市場の成長を疑う人は誰もいません。コンテンツの所有者たちは、彼らがDRMについて何もわかっていないことを示しつつあります。スマートフォン(多機能電話)はどんどん一般的なものになり、いまではごく普通の「電話」のような存在です。なかでもたったひとつの機種(訳注:すなわちiPhone)が、モバイル電子市場を牽引しており、その弱々しい着信音が示す起源から、はるか遠いところまで引っ張っていきました。しかし、かつての電子書籍市場を経験した立場から申し上げるなら、現在の新たな電子書籍市場でもっとも注目すべき点は、前回のそれと類似点がきわめて多いことなのです。

電子書籍について尋ねられたとき、「読書用端末」を思い浮かべるのが正解だと考える人たちは、1990年代と同様にいまも多数派です。アマゾンのキンドルは、当時におけるRocketbookみたいな存在です。しかし同時に、この両者の背景の違いは歴然としています。キンドルは世界でもっとも強力な小売業者が、インターネット上で独占的に販売している商品です(一方、ほとんどの読者はRocketbookなどという名を聞いたことがないに違いありません。じつはそこがこの話の核心なのです)。そのほかにも1990年代のように、「人々がすでにもっている機器」に勝負を賭けようとしている業者もいます。

第一次「電子書籍」戦争を戦った老いぼれの退役軍人である私から、当時の読書用端末が辿ったみじめな運命と同様、今回もキンドルやSony  Readerといった読書用端末は同じ結末をたどり、iPhoneやiPodが勝利をおさめるという予言を期待している人がいるかもしれません。

読書用端末がうまくいくのは、消費者が高価な専用機器の購入を正当化できるほど、電子書籍市場が成熟したときだろうと、私はいまでも考えています。しかし、だからといって「読書用端末は現在の市場では絶対に成功しない」と言いたいわけでもありません。現在のアマゾンの通販サイトと連動し、そこでの人気商品となったキンドルがいい例です。

キンドルはいつしか臨界点を突破し、「電子書籍にとってのiPod」に成長するかもしれません。そうなると、アップルがようやく重い腰をあげて、iPod(そしてiPhone)こそが「電子書籍にとってのiPod」であることに気づくかもしれません。アマゾンは必死に努力していますが、わざわざ新たにハードウェアを買わなければならないというハードルが、成長の足かせになっています。アップルだろうと他の企業だろうと、まだまだ競合が市場に参入する余地はあります。

人々の電子書籍に対する態度も、以前とあまり変わっていません。むしろ以前より悪化しているかもしれません。なにしろ、過去10年のあいだに電子書籍についての悪評を耳にした消費者がたくさんいるからです。それに、さきほど話題にした「馬車愛好者」たちを忘れないでください。かれらはテクノロジーの進歩に死ぬまで抵抗しつづけるでしょう。

結局のところ、電子書籍については「すべては過去に起きたことと同じ」というムードさえあります。悲観的な気分の日には、ちょっとした兆候からさえ、「一度起きた悪いことはまた起こる」と考えてしまいます。電子書籍市場を離陸させようとした最初の試みは、一切なかったことのような気さえします。

もっと個人的なレベルで言うと、Peanut Pressなどという会社は存在しなかったように思えてきます。この記事のはじめのほうで書いたことに、敵意や反感が満ちているのは、そのせいでしょう。どんなささいな失敗もゆるされない最初の電子書籍市場で苦難をあじわった我々のような者は、電子書籍の市場が大衆的な支持を得ることを望むと同時に、ものごとのなりゆきが前回と変わらず、過去から学んだ様子が見られないことに、苦々しい思いを抱いています。過去のことに病的に囚われているのではありません。むしろその逆に、私たちの失敗から教訓を得た人たちがほとんどいないことに失望しているのです。結局のところ、歴史から何かを学ぼうと思うなら、まず歴史そのものを知らなければならないわけです。

電子書籍の苦闘の歴史に最後に現れる、特筆すべきレギュラー登場人物は出版社です。彼らは何かを学んだでしょうか? 電子書籍がいつまでたっても消え去らないことに、出版社は不満なのではないかと思うことがあります。出版社をとりまく環境は厳しく、これからもっと厳しくなっていくでしょう。出版社の必死さは、最近ある大きな出版社が比較的小さなデジタル出版社と業務提携したことからもわかります。この手のニュースは、数年前だったら大ニュースになったことでしょう。しかし今日では、アマゾンやアップルのようなデジタル大企業と関係のないニュースは、さざ波さえ起こすことができません。

電子書籍の次のレースが始まる準備は完了しています。アップルは電子書籍の市場に参入するでしょうか? アップルが眠りから覚めて伝家の宝刀を振り上げれば、いつかは必ず訪れる電子書籍の未来に向けて、現在から最短距離の道筋ができることでしょう。

もしアップルがダメでもアマゾンがいます。最強の候補者であるアマゾンは、すでに自らの流通網がもつ影響力を背景に、出版社に対して値下げ圧力をかけています。キンドル版の「ハードカバー」は10ドル前後と、他の書店より5ドルから8ドルも安く売られています。しかし読書用端末という戦略では、電子書籍の急激な成長までにかなりの紆余曲折があると思います。他の企業にとっては、その間が市場参入の大チャンスです。

電子書籍に関してはいまなお混乱が王座を占めています。パブリックドメインのテキストしか読めないカッコいい読書用端末、事態を悪化させるとしか思えない「本のような」アプリケーション、モバイル機器で電子書籍を動かす方法にまつわる広くいきわたった誤解、等々。意気込みには敬意を払いますが、これらは電子書籍にとってもっとも生産的な行動指針ではありません。

そうそう、Peanut Pressもある意味で生き残りました。eReader(いまはPalm ReaderでもPeanut Readerでもありません)はさまざまなプラットフォームに対応しています。『ハリー・ポッター』を電子書籍化するのは夢また夢ですが、そのほかのベストセラーの電子書籍版ならやまほどあります。ええ、DRMもまだ健在です。出版社がレコードレーベルと同様、DRMについて最小限度の理解をするまでには、まだまだ時間がかかるでしょう(とはいえ、出版社はレコードレーベルのように、過去5年間に35000人もの読者を訴えたりしなかっただけ、マシかもしれません)。

私が何年も前に想像していた電子書籍市場がどんなものだったのかを知りたければ、iPhoneかiPodにeReaderStanza(どちらも無料です)をインストールして実際になにか本を買い、ダウンロードして読みはじめみればわかります。いまでは高解像度のカラー画面と大容量メモリーを備えた小さくて薄く軽い端末で、これら一連の動作をワイアレス(WiFi, EDGE, or 3G)で行うことができます。しかもこの端末は電話にもデジタル・ミュージック・プレイヤーにもアプリケーション・プラットフォームにもウェブブラウザーにもゲームマシンにもなるのです。

しかし、このパズルにはまだ大きなピースが欠けています。何百万人もの忠実な顧客をもち、実際に電子書籍を売っているオンラインストアはまだ存在しません。eReaderやStanzaについてくるオンラインストアを見くびるつもりはありませんが、率直にいって、どちらにもクレジットカードをもった5000万人ものユーザーはいませんし、何億ものデジタルメディアの売上も記録していません。あらためて申し上げますが、AppStoreは電子書籍を売るための場所ではありませんし、いかなる意味であれ、アップル自身は(すでに名前が体を表していない)iTunes Storeで音楽や映画と一緒に電子書籍を売るということもありません。

そうは言っても、ビジネスの観点から電子書籍を見た場合、楽観的になれる理由もたくさんあります。いくつかの大企業が参入しはじめた以上、他社も動き出すでしょう。出版社はまだ蒙昧な態度から目醒めていないとしても、厳しい現実のなかでは電子書籍化のオファーを歓迎せざるを得ず、過去のように冷たい態度をとることはなくなりました。

勝利は読者のもの

電子書籍の未来の到来を阻む壁として最後に残るのは、読者であり、消費者であるあなたです。この領域ではアップルの貢献がまたしても期待できるでしょう。消費者がこれまでに一度も必要だと思ったこともない機器を、こぞって購入する気にさせ、いままで一度もしたこともない用途に使わせるなんていうことは、他の企業にはできっこありません。アップルの製品発表とマーケティング戦略は、想像しうるほかのどんな方法より早く、電子書籍を読む体験を世界にもたらすでしょう。もしそれでもダメなら、時間をかけて個人の力で電子書籍を普及させていくしかないでしょう。

さて、最後は電子書籍の起源をめぐる、私の個人的な経験をお話しして終わりにしたいと思います。Peanut Pressで働くまで、私は「電子書籍」という言葉さえ聞いたことがありませんでした。いまでも憶えていますが、創業者の一人であるジェフが面接のとき、Palm社のPDAで読んでいた電子書籍を私に見せてくれました。ジェフはそれを見て私が感銘をうけることを期待していたようですが、私には小さくて暗い低解像度の画面にきわめて小さな字が表示されている、としか思えませんでした。さて、私にはウェブストアの開発という仕事が与えられました。消費者がそのウェブストアで実際にどんな製品を買い、ダウンロードしているのかは、私にとってはあまり大きな問題ではありませんでした。

働きはじめてから1、2ヶ月ほどしたある日、電子書籍の光を見た瞬間に、自分がすっかり変わったように感じました……といった話を期待している方もいるかもしれません。しかし、そういうことは起こりませんでした。ウェブストアの運営と、電子書籍の製作という裏方仕事のなかで、ビジネスに必要なあれこれを学びました。でもその多くは、業者の視点からのものでしかありませんでした。

しかし、私以外のすべてのプログラマーがPalm社のPDAをもち、それで電子書籍を読んでいることに、いつまでも気づかないでいるわけもありません。私も直ちにPDAを会社に支給してもらいました。この会社では製作・販売・ダウンロードの全プロセスが形づくるループに、Palm社のPDAは必要不可欠だったからです。それを手に入れたとたん、自分でも電子書籍を読みはじめたことは言うまでもありません(そのほかにVexedというゲームでも遊びましたが)。

正直に言うと、160×160ピクセルの画面で初めて読んだ電子書籍がなんだったかは憶えていません。めくるめく閃光を見たわけでも、即座に電子書籍派に回心したわけでもなかったのです。そのかわり、一つの電子書籍を読み終えるたび、別の電子書籍をPDAに転送していました。なにしろ、このPDAではほかにすることがなかったのです(もちろん、他の目的にも使えることはわかっています)。

あるとき、すでに5~6冊の本をこのPDAで読んでいることに気づきました。いつのまにか紙の本を読むことをすっかりやめていたのです。そのときはじめて、なにが起こったのかを考えはじめました。 このPDAの小さな画面での読書が苦痛でなかったばかりか、紙の本には戻れないほど満足できたのはなぜでしょう?

私の結論はこうです。第一に、私は本よりもPDAを手元にもっていることのほうが、圧倒的に多いのです。仕事の合間に本を読めるだけのちょっとした時間があるとき、手元にあるのはPDAであり、それまで読んでいたような紙の本ではなくなりました(この考えを突き詰めていくと、「読書をする機会」の定義はとてつもなく拡大していきます)。第二に、明るい光やページをめくる音で妻の睡眠を妨げることなしに、夜のベッドで読書が可能になったことです(黒い背景に黄褐色の文字を表示させるテーマ色は、Peanut Press社内では「ワイフモード」として知られていました)。第三に、意味がわからない単語をタップするだけで辞書の定義が見られる機能は、手放しがたいものとなりました。

このくらいで十分でしょう。上に挙げたのは、電子書籍のさまざまな美徳のうち、あくまでも私の心をとらえたものにすぎません。あなたには違う理由があるかもしれませんし、紙の本以外では読書の満足を得られないという人もいるかもしれません。でもお願いです。一度でいいので、素直に電子書籍を試してみてください。

考えることより、行動することの方が困難です。私は自分が何をしているのかもわからず、いつの間にか電子書籍を読みはじめていました。もし最初に渡された読書用端末がキンドルだったら、私は気に入らなかったでしょう。 キンドルは持ち歩くには大きすぎますし、画面にバックライトを採用していません。つまり、私が電子書籍に魅せられた三つの理由のうち、二つが当てはまらないからです。

これはキンドルが(私を魅了した)Palm m505よりも、読書用端末として劣っているということでしょうか? そうではないのです。コンテンツと端末機器とは区別されるべきだ、という話を思い出してください。もしあなたが、ある読書用端末が気に入らなかったり、そのビジネスモデルや購入経験に不満があったとしても、電子書籍という考えを見限ってほしくないのです。その不満は、別の業者によるサービスで解消されるかもしれません。何度も申し上げていますが、「電子書籍」とはテキストのことであり、端末のことではありません。そこをお忘れなきように。

Peanut Pressのもう一人の創業者の言葉をご紹介して、私の話は終わりです。この言葉は、さしたる根拠もないままに、私たちが電子書籍に対して抱いてきた楽観主義をうまく言い表していると思います。

携帯機器で本を読むなんて絶対にできない、と言い張ったあとで、電子書籍を試し読みしてみようとする人のことをなんというか知っているか?――〈お客様〉だよ。

私に起きたことは、あなたがたにも起きえますし、そうであることを願います。電子書籍の未来がやってくるまでには長い時間がかかりましたが、私は早くそれが実現してほしいのです。

(日本語訳: 編集部)

※本稿は2009年2月にArs Technicaに掲載されたジョン・シラクッサ氏による記事「The once and future e-book: on reading in the digital age」を、著者の承諾を得て全訳したものです。

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