アマゾンが Kindle の発売によって実現したのは「持ち歩ける電子書籍」です。しかし実はそれよりもはるかに重要なのが、同時に行った「本のクラウド化」です。
Kindle の本が「クラウドである」理由は、購入した本をアマゾンが常にバックアップしているとともに、それにドッグイヤーをつけたり、線をひいたり、書き込みをしたりでき、その情報も保存されているという点にあります。つまり「購入した本」という本来固定化された情報を、自分で更新できるしくみがあり、その更新情報がネット上に保存されるという点です。アマゾンがバックアップしているのは「購入したときのまっさらな本」ではなく、書き込みをした(さらに書き込みができる)「自分の本」なのです。
「自分の本」のベースは、販売されている一冊の本です。だれが購入しようが、同じものと認識できる一冊の本です。その一冊の本というデータは、論理的には、世界の中でたったひとつあればいいのです。
アマゾンは、その本のデータ(の複製)を売るのではなく、それを「参照する権利」と、データに「自分専用のデータを付加する権利」を同時に売っているのです。「本を所有すること」ではなく「読書をすること」そのものを売っているのです。したがって、より正確には、本がクラウド化されたというよりも、読書体験そのものがクラウド化されたと言うべきでしょう。これは、本の歴史、読書の歴史にとって、とても大きなできごとです。
このことから、次の未来が見えてきます。現時点では、「自分の本」たらしめている自分の書き込んだデータは、自分自身だけが参照するものです。自分の読書は、自分だけに閉じられた体験です。その「自分だけのデータ」を公開できる機能が、いずれ登場するでしょう。それは、メタファーではない、文字通りの「ソーシャルブックマーク」です。読書体験の共有化です。
自分が読んだ本を、ほかの人がどのように読んだのか、どこに線をひいたのか、それが分かるようになる※のです。何千人もの人が書きこんだ下線を全部表示されたらたまらない? ツイッターのように自分のフォローしている人のだけを表示する、自分で作ったリストに入れてある人のだけ表示する、といったものになるでしょう。この機能の魅力は強力です。
ぼくがアマゾンなら、知の巨人と言われる人※や、政界・財界の重要人物に、下線を引いたりメモをしてもらいながら本を読んでもらい、それを公表させてもらいます。そうすれば、尊敬する知識人の下線やメモに興味のある大量の消費者を、アマゾンからの購入に惹きつけることができます。同じ本を購入すればそこに下線やメモが書かれている(または書かれていく※)のですから、リアル書店はもとより、他のオンライン書店で「まっさらな本」を買う理由がありません。(もちろん、まっさらにして読みたければ、表示をオフにすればよいだけです)※1
また、どのくらいの人がどのくらい線を引いたかということが、本の販売数とは別に、その本のよりリアルな価値を示す指標となるでしょう。さらに、しおりやマークのメタファーを超えた機能も提供が可能になります。リンクです。ある本の特定の行や言葉から、別の本の特定の場所へのリンクを張る※のです。その別の本をすでに購入している人はそのままリンク先が読めます。まだ購入していない人は、そのリンク先の周辺だけが読めるか、あるいは読めなくしておくか、いずれにしても購入が促されます。※2
リンクは著者自身はもちろん、他の人が貼ることもでき、それによるアフィリエイトも可能になるでしょう。
紙に縛られていた情報が自由になる。このような「紙よりも自由なしくみ」には「紙よりも自由なしつらえ」が重要になります。単にこれまでの本を読む方法をメタファーにしたUIでは、様々な機能をシームレスに盛り込むのは難しいかもしれません。このような新しい世界を実現するUIを考えていると、実にわくわくしてきます。
※1
下線やメモの表示のしかたによっては、現在の著作権法上の同一性保持権にひっかかる可能性もありますが、下線を引いた場所のみの情報やメモのみを提供するならば問題にはなりようがありませんから、微妙なところです。そもそもこのようなしくみによる表現が著作権法で想定されていませんから、許容していく方向になっていくだろうと想像します。
※2
リンク先の著作権者の許諾によって、その部分が読めるようにするか、読めないようにするかを決めることになるでしょう。しかし、今のウェブサイトが外部からのリンクの数によって検索エンジンにおける検索されやすさを獲得しているように、あるいは多くの論文に参照される論文には価値があるとされることが多いように、他の本からの多くのリンクを受け入れる本の方が価値を上げ、より多く販売される結果となるでしょう。そのうえ、著作権者の側でリンクを拒んだり、リンク先の一部を見せないことは、「都合の悪いことがあるんじゃないか」「セコイ」といったマイナスの評価を獲得してしまう可能性もあり、メリットがあまりなさそうです。
「マガジン航」のための追記
●別の読み手をフォローする
何千人もの人が書きこんだ下線を全部表示されたらたまらない? ツイッターのように自分のフォローしている人のだけを表示する、自分で作ったリストに入れてある人のだけ表示する、といったものになるでしょう。
●こう書いていて頭に浮かんでいたのは、松岡正剛さんです。
この記事のオリジナルエントリーを読んで下さった方が「セイゴオマーキングを想起した」とツイートしてくださったのですが、まさに、そのような松岡さんが実践されている個人的な読書行為が共有されることによって、本の内容に意味づけがなされ、関連する情報が提示され、リンクされて、その本の価値をさらに高めることになります。
●「読書ライブ」
ここで「書かれていく」と但し書きをしたのは、リアルタイムで読書行為を眺めることができる、という意味です。同じページを開いておくことで、そこに他の人が線を引いたり、メモをしていくのがリアルタイムで自分の本にも表れてくる。例えば、松岡正剛さんの読書行為をナマで、リアルタイムで目の当たりにしてみたいという人はぼく以外にも少なくないのではないでしょうか。
もちろんこうした「読書行為の公開」は一方通行でなく相互に、また著名人・無名人を問わずフラットに、行われていくことになります。
「今、同じ本の同じページを読んでいる、どこかのだれか」と、読書体験を共有することができます。他人の下線やメモにコメントをすることもしくみ次第で可能ですから、そうすると自分の読書行為がその場で「読書会」にもなりえます。誰かほかの人と、同じ時間に、同じ本を読むというのもまた、これまで日常的にはあまり持ち得なかった読書体験として、新しい楽しみになるでしょう。
もちろんリアルタイムでなく、タイムシフトしてもいいのです。かつて学校の図書館で本を借りると、その本に付されている貸出票には、それまでにその本を借りた人の名前と年月日が連なっていました。それを見て、会ったことのない先輩たちに不思議な共感を覚えたものでした。読書体験の共有化は、そうした感覚をずっと深めることになるでしょうし、同時に、同じ本への異なるアプローチを追体験することで、その本への理解もずっと深まることでしょう。
●新たなる「版元」
デジタル書籍へのブックマークやメモやリンクがソーシャルなものとして機能するには、その書籍データが、1)ユニークに、2)参照可能な形で、3)固定化されて、存在することが必要です。
1)は、書籍がURIを持つことであり、現在ではISBNがそれに準じるものですが、古い書籍にはついていない、同じ番号を異なる書籍や版に使っている場合がある、電子書籍にはふられていない、早晩番号が枯渇する、など不十分です。
2)は、有料無料を問いません。ただし「いつでも、永遠に」参照可能にするためには公的図書館がその任を負うべきだろうと考えます。国家を超えて全人類の出版物を参照可能にする図書館も必要になるでしょう。
3)の「固定化」とは、「情報をある時点で凍結して、それ以上変化しないものにする」という意味です。
このことがないと、参照先がなくなる、移動してどこだかわからなくなる危険性があります。社会が知識や経験を蓄積していく上で「ある書籍がなくなる」ことを避けるのと同様に、「書籍のある部分がなくなる」ということもまた、避けなければなりません。
「版」を作り出す組織としての「版元」の役割は増す
私は、この「情報の固定化」こそが、これからの出版社に残されたもっとも大きな責務ではないかと考えています。情報の種類によっては、常に変化し続けてよいものや、むしろし続けることが求められるものもあります。しかし多くの人が、様々なメディアによって参照し、それを元にして相互に理解をしたり議論をしたりする元となるものは、ある一定の期間、固定されている必要があります。
これまでは、物理的な制約によって、出版すること=固定化でした。したがってこのことをあまり意識する必要はありませんでした。デジタルネットワークの世界では、ウェブがそうであるように、公開した情報を、いつでもいくらでも変更することが可能です。
もちろん、いくらでも自由に変えることができるというデジタルの利点を切り捨てる必要はありません。ただし変化させるときには、どこがどう変化したかが分かるようにし、「変化する前と後のかたち」として固定化がされなければなりません。参照するとき、いつ時点の情報を参照しているのかが重要になるからです。
ウェブと「書籍」の本質的な違いはここにある(ここにしかない)と思います。ウィキペディアのように、あらゆる出版物がその改変履歴を保存しつづけ、いつの状態のどの部分に対しても自由に参照できるしくみがあれば、その違いすらなくなってしまうのかもしれません。しかし当面、書籍をそのようなシステムで出版し、維持するコストとその必要性にはかなり差があり、実現はされないでしょう。(そこまでいくとザナドゥに一歩近づくが、ザナドゥが実現されないのもまた現実の社会の要求による、もしくは要求がないことによる、のでしょうから)
ある時点での一定の固定化されたコンテンツ、これこそはまさに「版」です。これまでの「出版」物は、ウェブとは異なり、「版」を「出」したしたあとは改変ができないという物理的制約を大きな理由として、充分な検討と手間をかけて版を作る、すなわち編集を行ってきました。編集を行う対象は、その手間に見合うと考えられたコンテンツが選択されました。こうしたことから、版という形をとったコンテンツは一定の質を保ち、結果として、それが出版への大きな信頼につながっていたはずです。
つまり、多くの人が参照し、それを元にした理解や議論をするための元を固定化するということは、単にある時点でのコンテンツをそのままの状態でフリーズするということだけでなく、理解や議論がしやすくなり、またそれらに値するものになるように、充分な吟味と加工をすることが前提となるのです。
さらに、これまでのように物理的な制約が無くなるデジタル世界では、いったん公開された情報、ことに多くの他の情報から参照する先となるべく出版された書籍は、人権侵害などよほど重大な問題が生じない限り、永久に公開されつづけることを前提とするべきだろうと考えます。
もちろん版の改訂、バージョンアップも今までよりコストをかけずにできることができますが、改訂の内容そのものもまた保存すべき情報と考えられますので、上書きされて前のバージョンが存在しなくなるわけではなく、改訂の内容が明示できる形で、前のバージョンも残っていくことになります。
紙が持つ複製数や保存期間の物理的限界を超えて、コンテンツが広く長く参照されるとなれば、これまでの紙の書籍よりもひとつの「版」が持つ重みははるかに増す、と言うことができるのです。
したがって、編集者を抱え、編集行為のアウトプットとしての「版」を作り出す組織としての「版元」は、参照の機会が莫大に増えていくであろうこれからこそ、より本質的な部分での役割が問われ、必要性は増していくと考えています。
(この記事は、2009年6月にソシオメディア社のブログに掲載された同題の文章を加筆していただいたうえ転載したものです。)