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欲しいものを手に入れたら

今日は一年で最も日が短く(注・原文if:bookに2009年12月に投稿された)、ニューヨークはじきにぬかるみに変わる一面の雪に厚く覆われており、この世界にがっかりしないでいるのは難しい。民主党はヘルスケア改革を法案を通すためと称して骨抜きにし、オバマはコペンハーゲンで何ら意義あることを成し遂げられず、アフガニスタンでの戦争が10年代にも続くことが明らかとなり、銀行屋どもは見たところ何も有益なことをしていないにも関わらず百万ドルのボーナスを手にし、メキシコシティーがニューヨーク州よりも先に同性愛者の結婚を合法化している。

ゼロ年代の終わりとなる12月になり、何が達成されたか、また何が達成されるはずだったかの両方を振り返りたくなる。何かしら実現するはずだったのにと思うと失望は一層深くなるものだ。一年前、オバマがゼロ年代の長いトンネルの終わりを照らす光に思えたように。

今年は、電子書籍が5年前には想像もできなかったくらいたくさん報道された年の瀬でもある。ただ同時に、私は近頃何を見ても興奮しにくくなっている。デバイスについて大層騒ぎになっているが、それがまだ未熟なのは明らかだろう。アップルが遅れに遅れているタブレットを発表し、グーグル発のデバイスが次々とそれに続けば、どのデバイスにしろ一年かそこらで時代遅れになるに違いない。出版についてはいろいろ言われているが、読者予備軍にとって特に興味をひくものではない。出版社はハードカバーと比較して電子書籍を発売する日付や、単一のディストリビューターに独占権を認めるかどうかなんてことを議論しているからだ。それは特に面白い話じゃないし、この5年間を念頭に置けばなおさらである。

現在の議論において、本は単なる日用品であり、市場において最大の利益となる価格で消費者に渡るものである(これと似た議論が、ソーシャルネットワークの世界についてもなされたようだが、こちらはTwitterの140文字制限でコミュニケーションを行う困難をクレジットカードでの購買記録に置き換えるという天才的なアイデア――手遅れの不況のさなかとはいえ――をもつ新しいソーシャルネットワークのプラットフォームであるBlippyで論理的帰結に達しているようだ)。

電子書籍が遂に成功をおさめるという議論がなされているのもかもしれない。重役たちが、電子書籍の売り上げが将来の売り上げのしかじかのパーセンテージになるという壮大な主張を行うわけだ。スティーブン・コヴィーはアマゾンと独占流通契約を結んでいる。マコト・リッチがニューヨークタイムズでその全容をうやうやしく報じている。

私が抱える問題は一部個人的なものだ。技術の世界は回転がとても速い。私は当研究所(the Institute of the Future of the Book)で5年過ごしているが、これは健忘的な最近のメディアの世界だと誰であれ自分がしわくちゃな年寄りだと感じさせるのに十分過ぎる。天啓に思えるものは言うまでもなく、目新しかったり興味深く思えるものも見つけるのがますます難しくなっている。

で、何度も言うように年の瀬だ。確かに空気は暗く、不況は続いている。とはいえ、最近のソーシャルメディアの世界に何かしら長ったらしい退屈さを感じているのは私だけではないのではないか。私は最近こうした堂々巡りの会話をたくさんしてきた。diapsalmataにおけるホイットニー・トレッティンの投稿にも、これと関連する欲求不満が見事に見出される。つまり、のろのろ長引いている未来の境目にいるという感覚だ。トレッティンは、切迫する新たなデジタル読書体験に関する引用を三つすることで投稿を始めているが、素朴な読者ならそれは現在の話だと想像する引用文である。で、それが1999年の文章の引用だと分かる仕掛けである。

「祈り」はすでに叶えられたが……

症状が診断を下す。医者をお望みなら、私はアビラの聖テレサをお勧めする。「叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りの上により多くの涙が流される」と彼女は記した。トルーマン・カポーティは、みたされないことを扱った未完の小説の表紙にこの文句を引用するはずだった。

私がカポーティを読んでいたのと大体同じ頃、コートニー・ラブがより冒涜的な言葉でこのことを歌っていた。「どういう結末になるか最初から言ってたでしょ/欲しいものを手に入れたらそれはもう欲しくないの」 これは現状にあてはまる描写である。我々は叶えられた祈りの世界に住んでいるのだ。オバマは8年続いた失政の後に秩序を回復した。何百万もの人々がiPhoneやキンドルやその他の何らかのデジタル機器で読書をしている。

なぜそこで涙が必要なのか? 全般的に言って、現在ある多くのデバイスやソフトウェアは特に革新的なものではなかったり、読書のあり方に同調しないものだったりする。ハードウェアがずっとよくなっているとは言え、読書体験そのものは、ボイジャーが大衆市場に本を3.5インチディスクに格納して販売していた15年前と本質的に違わない。

違うのはネットワーク面だ。今ではほとんど即座に膨大な数の本を手に入れることができる。感謝祭中のヴァージニアの高速道路に退屈し、エドガー・アラン・ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』を再読したい感じなら、私はほとんどすぐに(コストをかけることなく)コピーをiPhoneにダウンロードできるわけだ。これは驚くべきことといわざるを得ない。読書体験としてはひどいものだが、それはまた別の問題である。頭に浮かんだらほぼすぐにそのテキスト(あるいはそれに近いもの)を手に入れられるのだ。これが新しいところである。

私はこの即座に得られる満足の感覚に興味がある。これが現在の顕著な特徴の一つである。iTunesからほとんどどんな単位ででも音楽を買えたり、Netflixで多すぎるほどある中から映画を選んで即座に観ることができるところがこれに似ている。それより弱い形としては、アマゾンで古本を買う体験がそうで、これは自分が常に行っていることだ。絶版かどうかに関わらず、ほとんどどの本でもアマゾン上で表示され、そのほとんどの本が10ドルもせずに一週間以内に自分のものになる。これらすべてのケースにおいて、十分な元手とネットワークアクセスがあれば、我々のメディアに対する欲求の大部分は、ますます瞬間的に解決可能なのだ。

我々はこのことをあまり考えないが、即座に欲求を満たすこの新しい能力は実はとても奇妙な進化といえる。つまり人間の進化の多くは、じらされて苛立つ欲望との折り合いをつける学習プロセスなのだ。そして本の歴史の大半は欠乏の物語である。市場には供給をこえる需要があった。デジタルへの移行がそれをすべて変えてしまった。デジタルコンテンツの供給は、大抵の趣旨や目的に対し無限であり、供給が需要を遥かにしのぐところまで来たことに気付く。これがあてはまるのは本だけではない。すべての電子的な読み物がこの位置に来たと言えるかもしれないのだ。こういう時代では、ほんの少しでも好奇心があれば、面白いと思えるコンテンツに限りがないことになる。

しかし、この価値観の変化は高くつく。この変化によって、いかにしてコンテンツを評価するかとても難しくなっている。我々は、欲しいものの重要性を確かめる働きをする欲求の円弧――欲求を抱き、自分に対して正当化し、それを得る方法を見つけ出し、手に入れる――に慣れていた。それが短いものになると、我々は途方に暮れて取り残されることになる。一昨年(注・2007年)の年末に書いた文章で、私はエリザベス・ビショップの「英国のクルーソー(Crusoe in England)」における救助されたロビンソン・クルーソーを例に用いた。彼はかつて心から大切にしたナイフを見て、それが意味のない、ありふれたただのナイフになってしまったことに気付く。「これの生きた魂はこぼれおちてしまった」と彼は言う。おそらくそれが今、本の世界で起こっていることなのだ。

レイモン・アロンの『変貌する産業社会』から引用する。「慨して、人類が今日まで悩まされているのが貧困だ。貧困は、個人の欲求とそれを満たす手段の間に共通の評価基準が欠けていることと簡単に定義される」

読書とコミュニティ

私は、何らかの記録を続ける必要性から(と思う)、今年読んだ本のリストを今年も書き続けている。もし本が人間を作るなら、構成要素のリストを書き続けると有用かもしれない。何の役に立つのかは分からないけれど。読書リストの集計はまだしていないが、だいたい三日に一冊は読んでいるのではないか(これは典型的なニューヨークの通勤を考えれば特段難しいことではない)。これは必死な感じがする。自分よりずっと高速に動く世界の状況を把握しようとする死に物狂いの試みというか。普通に考えて自分の人生で読み終えられる可能性がある以上の本が、私のブックリストに載っているのだ。いつもそうである。

しかしながら、この一年で最も興味深い読書体験は読了した本ではなかった。むしろ、読み終えることができてない本を読んでいるときだった。私はニューヨークの『フィネガンズ・ウェイク』読書グループに通っている。私は、最高に敬虔なジョイス愛読者ではないと言わざるをえない。十年前『ユリシーズ』を再読したとき、私は啓示を受けて突然そのスタイルが意味するところを理解したのだが、好きな書き手を十人挙げなくてはならないとして、ジョイスがその中に入るか必ずしも自信がない。答えがほしいときに私が手に取るのはプルーストだ。だが、『フィネガンズ・ウェイク』読書グループの儀式的なところには何か心地よいものがある。自分自身がコミュニティの一部であり、またそのコミュニティが自身よりも崇高なものに奉じているという感覚があるのだ。

毎月、読書グループは2時間かけてだいたい2ページ読み進む。ワインを飲みつつ、皆少しの文章を声を出して読む。グループはこの課題にとても長い間取り組んでいる。メンバーの年齢の中央値は私の年齢の二倍で、メンバーの多くは私が生まれる前からこの読書を続けている。クローズ・リーディングこそが『フィネガンズ・ウェイク』に入り込む唯一の方法である。とても濃密な文章を前に、読者は他の人が読むのを聞くことで理解のとっかかりを掴むしかない。いろんな読者がその文章に何か異なるものを見出す。黙って文章を精査する人もいれば、言葉に無声の語呂合わせを探す人もいれば、その文章について独自の風変わりな理論を主張する人もいる。必ず脱線が起こり、それが続く。しかしうまくいくときは、ほとんどあたかも文章がページから離昇するように感じる。カコフォニーから抜け出し、ジョイスの重層的な物語が共振するさまが聞こえ出すのだ。

そうしてようやくその文章の理解に少しだけ近づく。それはグループ読書を通じてのみ可能なことである。個人の読者がこのグループと同じくらい理解することはとてもできない――十分な本と忍耐力があれば、そうした体験に似た何かが非同期に再現することも確かにありうるけれど。しかし、私はこのような読書の体験に一番興味があるのだ。このコミュニティでは、読書は我々が通常考えているような内的体験以上のものになる。

それは経済的な文脈(さらにいえば学問的な文脈さえも)のまったく外側にある。いくつか文学系のメーリングリストに長年入っているが、私はウェブでそれに似たものを何かしら見つけたことはない。こんな感じで読書をすれば、残りの人生おそらく一冊の本でほぼ十分かもしれないという感じになる――もちろん、その一冊が正しい本であることが条件になるが。思うにこれは、我々が読書に関して前に進む道を見つけようとするなら探ってみるべき一つの救済策かもしれない。つまり、読書を日用品のやりとりではなく、社会的なやりとりの一手段と考えることである。

(日本語訳 yomoyomo)

※この記事のオリジナルはこちら
when we get what we want (if:book)

執筆者紹介

ダン・ヴィーセル
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