「本屋さん」の逆襲?――2013年を振り返って

2013年12月31日
posted by 仲俣暁生

今年は書店の店頭で「本屋さんの本」が目立った一年でした。いま私の手元にあるだけでも、以下の本をあげることができます(一部は2012年以前に発売されたものや文庫による再刊も含みます)。

石橋毅史『「本屋」は死なない』(新潮社、2011年10月。電子書籍版も2012年にリリース)
佐野衛『書店の棚』(亜紀書房、2012年9月)
永江朗『新宿で85年、本を売るということ〜紀伊國屋書店新宿本店 その歴史と矜持』(メディアファクトリー新書、2013年2月)
得地直美、本屋図鑑編集部『本屋図鑑』(夏葉社、2013年7月)
朴順梨『離島の本屋〜22の島で「本屋」の灯りをともす人々』(ころから、2013年7月)
広瀬洋一『西荻窪の古本屋さん〜音羽館の日々と仕事』(本の雑誌社、2013年9月)
伊達雅彦『傷だらけの店長〜街の本屋24時』(新潮文庫、2013年9月。親本は新潮社より2010年刊行)
ナカムラクニオ『人が集まる「つなぎ場」のつくり方』(阪急コミュニケーションズ、2013年11月)
堀部篤史『街を変える小さな店〜京都のはしっこ、個人店に学ぶこれからの商いのかたち』(京阪神エルマガジン社、2013年11月)
早川義夫『ぼくは本屋のおやじさん』(ちくま文庫、2013年12月。親本は晶文社より1982年刊行)
内沼晋太郎『本の逆襲』(朝日出版社、2013年12月。電子書籍版もあり)
福嶋聡『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年1月刊行予定)

どうでしょう。壮観ではないですか?

このリストには、めだった特徴があります。ひとつには、「書店」ではなく「本屋」という言葉が選ばれている本が多いこと。もう一つは、書店人(あるいは「本屋さん」)、つまり店を運営・経営している当事者が筆をとっている本が多いことです。さらにいえば、紀伊國屋書店やジュンク堂書店のような大型店ばかりではなく、小さな「街の本屋」についての本が多いことであり、それらを出している出版社も小さなところが多いことです。

上のリストに掲げた本の著者のうち、佐野衛さんは東京の神田神保町にある東京堂書店で長く店長を務められた方。広瀬洋一さんは西荻窪・古書音羽館の店長で、ナカムラクニオさんはそのお隣駅である西荻窪・6次元の店主。堀部篤史さんは京都市左京区にある恵文社一乗寺店の店長で、福嶋さんは大阪にあるジュンク堂書店難波店の店長。そして内沼晋太郎さんは東京・下北沢にあるB&Bという本屋の共同経営者です。そして今年に入って文庫化された二冊も、著者が現役の「本屋さん」だったときに書かれた文章を収めています。

これらの多くで「書店」ではなく、あえて「本屋」という言葉が使われている理由については、このリストの冒頭に掲げた石橋毅史さんの『「本屋」は死なない』の影響がとても大きいのではないかと私は思います。この本で石橋さんは、「本屋」とは書店=店舗のことではなく、「本屋をやっている人間」のことではないか、と強いメッセージを発しています。人こそが「本屋」なのだ、と。

また、この本のなかで紹介されていた、ひぐらし文庫の原田真弓さんの言葉もじつに印象的でした。

情熱を捨てられずに始める小さな本屋。
それが全国に千軒できたら、世の中は変わる。

今年に入って多くの「本屋さん」が本を出し、みずから声を発し始めたのは、こうした呼びかけに応えたものかもしれません。

ジュンク堂のように全国的に展開する大型書店から、小さな「街の本屋」さんまで。新刊書店だけでなく、古本屋さんや、カフェやギャラリーを併設しているお店まで。これらの「本屋さん」の声は、はたして何を訴えているのでしょうか。私には、それは「電子書籍をめぐる議論で抜け落ちていたこと」のように思えてなりません。

あらためて、「本と人はどこで出会っているか」

今年の秋、私は生まれて初めての入院生活を送りました(そのために「マガジン航」をひと月まるごと更新できず、たいへんご心配をおかけしました)。一ヶ月にわたる入院生活のうち、後半戦は退屈との戦いでした。見舞いにくる家族に、自宅から指定した本を持ってきてくれるように頼んだものの、そこには新しい本との出会いはありません。病室へのiPadの持ち込みを許可してもらえたので、電子書籍を買おうと思えば買えるのですが、どうしても食指が動きません。

代わりに私が利用したのは、病棟の面会室にあった、ちいさな「ライブラリー」でした。そこで私は、東野圭吾や宮部みゆきといったベストセラー作家の本を借り、あるいは小林信彦や田辺聖子の古い作品と出会い、誰が置いて行ったのだろう、塚本邦雄の短歌の本まで発見しました。病院がこれらの本を用意したはずがありません。おそらく入院患者が退院の際に残して行った本が、つもりつもってできたちいさな「ライブラリー=図書館」だったのでしょう。

ところで、昨年(2012年のことです)のお正月に「マガジン航」に書いた「人は本とどこで出会っているか」という文章で、私はこんなことを書きました。

いま電子書籍になっている本は――文庫版でさえ絶版になっているような、かなり古い本を除けば――日本中の比較的小さな書店でも手に入るような、 「売れ筋」の本が多い印象があります。もちろんそれは、ある程度の売上が確保できないタイトルを電子化するメリットが、いまの時点では少ないからでしょう。

しかし、「どこでも比較的簡単に手に入る本」しか電子書籍になっていないなら、そもそも電子書籍は誰のためにあるのでしょう?

やや挑発的に書いたこの一文のような状況は、その後の2年間でどのくらい改善されたでしょうか。新刊と同時に電子書籍が発行される例もふえ、各電子書籍ストアの品揃えは、かなり増えたように思えます。すでに購入を決めている本がそのなかにあった場合、24時間いつでもリアルタイムで購入・ダウンロード・閲読できる電子書籍バージョンの存在は、とてもありがたいものです。

しかし「本と人が出会う場所」という意味では、たくさんの本を一望でき、実際に手にとって吟味できるリアル書店の魅力に対し、電子書籍ストアは遥かに及ばないのが実状でしょう。ましてやそれぞれの「本」の向こうに、本を選び、売っている「人」の存在が感じられるかどうかは、リアル書店(へんな言葉ですが)と電子書籍ストアの、最大の違いではないでしょうか。その意味では「電子書籍ストア」は、石橋さんのいう意味での「本屋」ではありえないのです。

長い入院期間の間、いちばん心を慰めてくれたのは、じつのところ家から持ち込んだ本ではなく、さきの「ライブラリー」にあった、普段あまり読まない類のエンタテインメント小説でした。仕事がら必要で読む本とはまったく別の、純粋に暇つぶしのための読書の楽しさを、限られた本との関係のなかで、はからずも再発見したと言えるかもしれません。

とはいえ、待ちに待った退院後、まっさきに駆けつけたのは、入院先の病院にもっとも近い大型書店でした。書店に駆けつけるのではなく、「電子書籍ストアにアクセス」(もちろん、それは入院中も可能だったわけですが)ということにならなかったのは、「本と人が出会う場所」への自分の渇望が、電子書籍ストアでは癒やされないことを知っていたからです。

「本屋さん」の本は、たんなる反動ではない。

上に挙げた「本屋さんの本」の多くは今年の後半になって出たため、ちょうど私の退院後の時期と重なることになりました。「本」や「読書」や「書店」や「図書館」についての本、いわゆる「本についての本」は、大型書店であれば、そのためのコーナーが置かれるような一大ジャンルです。ひところはここに、「電子書籍」に関する本もさかんに置かれていました。しかし、「電子書籍元年」という言葉に踊らされた数年が過ぎた後、その大半は店頭から姿を消しました。皮肉にも、そのなかには電子書籍化されることもなく、いまでは入手困難な本もあります。

電子書籍関連本のブームが去った後に、それらと入れ替わるように「本屋」や「書店」についての本がさかんに刊行されるようになったのを見ると、一種のレトロ趣味、あるいは電子書籍という趨勢への反動、あるいは一種の「反革命」のようにさえ見えるかもしれません。著者のなかには、直接的に電子書籍やネット書店への反発や疑問を口にしている人もいます。

しかし、実際にこれらの本を読んでみればわかるとおり、いま出ている「本屋」についての本が語りかけてくる内容は、そうした話ではありません。これらの本はむしろ、ここ数年の「電子書籍」をめぐる動向を見据えた上で、本を商う「当事者」として、本と人との関係を深いところから考えなおした著作が多い、という印象を受けました。

昨年の年頭に書いた文章のなかで私は、「ブック・アサヒ・コム」の林智彦さんにご寄稿いただいた、「電子書籍の「探しにくさ」について」という論考を受けて、こんなことも書いています。

電子書籍をめぐる議論が陥りがちな「プラットフォームを握ったものがすべてを握る」的な極論より、林さんのいう「周辺プレイヤーも含めた」「(電子)出版のエコシステム」のほうが書籍出版の実態に即しており、また望ましいかたちだと私は考えます。

「本を売る」こと自体よりも、プラットフォームにおけるデファクト・スタンダードの座をめぐる激しい競争が「電子書籍」の本質であるのに対し、紙の本を売るという仕事はもともと、さまざまな「周辺プレイヤー」が共同してつくるエコシステムのなかで行われてきた、「本と人を出会わせる」仕事だといっていいでしょう。

駅前にある一つの大型書店だけがすべての本を売るのではなく、中規模や小規模の書店や古書店が、そのエリアの住人に合わせた品揃えをする。堅い本も売れば、雑誌もマンガも文房具も売る。さらには本以外のもの(ギャラリーだったり、カフェだったり、イベントだったり、その他の商品だったりします)を提供する「場」としても、「本屋」は機能してきました。そして、それらの店には必ず、「本屋さん」と呼ばれるべき人がいたのです。

日本中でいま多くの書店が姿を消しつつあるのは確かです。でもそれと同時に、本をめぐる新しい動きが、日本中のたくさんの「本屋さん」の努力によって起きているのを感じます。間違いなく、いま「本屋」は生まれ変わりつつある。そのような人たちの考えや実践を知ることは、「電子書籍」と呼ばれる領域の仕事をする人たちにとっても、決して無益ではないはずです。

この年末年始、そんな「本屋さん」たちの声に耳をそばだててみてはいかがでしょう?

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。