池澤夏樹さんに聞く、本と出版のこれから

2012年3月24日
posted by マガジン航

昨年3月11日に起きた東日本大震災の後、作家の池澤夏樹さんは『楽しい終末』という本を電子書籍として復刊した。人類が手にした核をはじめとするテクノロジーは、私達をどこへ連れて行くのか。「楽しい」という語と「終末」という語の組み合わせに少し戸惑ったが、私はこの本を読んで池澤さんに話を伺いたいと思った。たんなる旧著の復刻にとどまらず、この本を震災後のいまこそ読者に届けたい、という「出版」への志を感じたからだ。

ご多忙のなか、昨年のうちに快く取材に応じていただいたにもかかわらず、編集に手間取り、掲載時期がかなり遅れてしまったが、あの震災から一年という節目に、あらためてこの本が多くの方に読まれることを期待して、池澤さんへのインタビュー記事をお届けする。(インタビュー・構成:仲俣暁生)

「これなら読める」

――まず、『楽しい終末』を電子書籍化することになった経緯からお聞かせください。

池澤 非常に俗な話になってしまいますが、もとの文庫本が品切れだったんです。この本には原発についての話も書かれているから、東日本震災を機に再版を出さないかと版元の文藝春秋に打診したところ、彼らは商売にならないと判断したのか、再版しなかった。ちょうどその頃、村上龍さんがやっているG2010の電子出版の活動を横目で見ていたので、紙で出ないなら、いい機会だからやってみようと思った。この本は、電子出版するには少し内容が固いかもしれないけれど、それだからこそ、むしろやってみる値打ちがあるんじゃないかと思い、こちらから話をもちかけたんです。

――電子書籍という形式に対して、抵抗感はありませんでしたか?

電子書籍版は畠山直哉氏の写真も収録。

池澤 いえ、もともと電子メディアに対しては親近感があります。僕はいちばん最初にワープロで書いた小説で芥川賞をとった作家だし、これまでも2001年の「9・11」の後には、すぐに「cafe impala」というサイトを興して、「新世紀へようこそ」という連載をはじめた。イラク戦争の直前に現地へ行って、帰国してから一人で反戦活動をしていたときも、急いで本を作らなければ、と思い『イラクの小さな橋を渡って』(文・池澤夏樹、写真・本橋成一)を出した。これは日本語版は紙の本だったけれど、英語・ドイツ語・フランス語版は、写真もテキストもほとんど紙の本と同じ体裁のPDFを、ウェブから無償ダウンロードできるようにしたんです。

――今回も、そうした過去のデジタルでの出版活動の延長線上ということですね。制作は具体的にどのように?

池澤 プロデュースはうちの会社(Ixtan)の社長である妻がやりました。僕の役目は、本の校了テキストを提供したあとは、要所要所で口を挟んでチェックしたのと、付録の動画インタビューに応じたことぐらいです。あと、文字だけではさすがに寂しい、売るためにはもう少しチャーミングにしようと思い、友人の写真家・畠山直哉さんに、それほど力の入ったものでなくていいから写真を貸してほしいといって、彼の事務所で一緒に探したら、この写真が出てきたんです。テクストと写真の完璧な一致に自分たちでも感動した。

――実際にできあがった電子書籍を見てどう感じました?

池澤 「これなら読める」と思いました。

――昨年の公開後しばらく、期間限定で85円で販売されていましたね(現在は450円)。そのあたりのアイデアはどこから?

池澤 販売の方法や、価格設定その他には僕は関わっていません。

G2010の担当者 電子書籍はどうしても、ある程度App Storeのランキングの上のほうに出ないと、本が出たということさえ知ってもらえない。そこで、期間限定で安価で販売し、多くの読者に『楽しい終末』という本の存在を知ってもらう戦略をとりました。

池澤 あれはうまいやり方だったね(笑)。

僕はラッダイトではない

――『楽しい終末』では、原発に象徴される科学技術への懐疑が語られています。原発と比較するのは不謹慎かもしれないですが、電子書籍にもテクノロジー主導の側面があります。ある意味でテクノロジー批判も含んでいる内容の本を、あえて電子書籍でお出しになったことを、とても面白いと思いました。

池澤 僕はべつにラッダイト(産業革命時に機械打壊し運動をした人たち)ではないんです。いまから時計の針を十年前に戻して本についての話をしても仕方ない。なぜなら、子供たちの世代はもう、デジタルのほうに行ってしまったから。世代が変われば、読者に届くメディアも変わるのは当然です。

37人による書物論アンソロジー。

僕には技術の変化を面白がって見守っているようなところがあるんです。見守った上で、大きく間違ったことがあった場合は批判する。たとえば原発は批判すべきテクノロジーの典型です。その一方で新しい技術に対する好奇心もある。DTPもとても早い段階で「科学朝日」の誌上で試したりした。

実際、デジタルのメディアには非常にお世話になっています。 いまウィキペディアがなかったら執筆はとても効率が落ちる。二つの言葉を並べて検索するなんてことは、広辞苑ではできない。それができるというのは大変なことです。ネットによって古書のマーケットも大きく変わりました。ネットは知的なツールとしてもすごいものなんです。

――池澤さんは岩波新書の一冊として出た書物をめぐるアンソロジー、『本は、これから』の編者もなさっています。あの本では電子書籍に厳しい意見が多く、どちらかというと紙の本を擁護する筆者が多かったですね。

池澤 『本は、これから』が紙の本の擁護に傾いた理由は、執筆者の平均年齢が高かったからですね(笑)。本が出来上がったとき、ボイジャーの萩野さんみたいに、デジタルの立場の人が、もう少しいてくれたらよかったと思いました。

――ご自身でもふだん電子書籍を使っていますか?

池澤 Kindleを使っています。それでスティーブン・キングの新作を読んだりはしないけど、シェイクスピア全集を参照する。シェイクスピアを全部入れて読めるのは本当にありがたい。古典だけでなく、英語の新刊本をKindleで丁寧に読むこともあります。あたまから読み始めて、そのまま最後まで読み終えるような本の場合、没頭して読み始めてしまえば、紙の本とかわらないですね。

ただし、もう少し複雑な読書、つまり読み始めてそのまま読み終わるのではない読書の場合、それから書評を書くために読むような場合は、やはりまだ紙の本のほうがいい。書評を書くには、一行目から最後まで読むだけではダメなんです。もう少し離れて、鳥瞰的に見る必要もある。あるいは一章だけを丁寧に読むこともある。つまり、いろんな解析をしながら本を読んでいる。書き込みもするし、付箋も貼るし、他の本からの引用も入れたりする。そういうことをしようと思うと紙でないととてもやりにくい。

――紙の本がふさわしい本と、デジタルでもいい本とがある。

池澤 そう。書評を書くのではなくても、世の中にはどうしても丁寧な読みをしなければならない本というものがある。たとえばウィトゲンシュタインを読むなら、やはり紙の本でしょう。電子と紙の本は、そういう住み分けをしていくと思います。

――『池澤夏樹全集』のようなものが、電子書籍で出たら面白いでしょうね。池澤さんの小説のなかには科学的思考のようなものがあるので、とても電子向きです。やるのはたいへんですが、すべての作品に詳細な注をつけたりしたら、面白いことが起きるかもしれません。

池澤 注をつけるのは楽しいので、やるとしたら自分でやりますよ(笑)。いままでで脚注づくりがいちばん面白かったのは『ハワイイ紀行』で、ものすごくたくさん注をつけたんです。『光の指で触れよ』という小説には写真を入れたけれど、注も入れてみたい。写真のオリジナルデータも、注をつけるための材料も手元にあるので、それらを全部いれこんで重層的なテキストにしたら……なんて、こんなこと言っちゃって大丈夫かしら(笑)。

――いつかぜひ、実現してください(笑)

新しい書き手はデジタルから生れるか?

――今回の本の話から少し離れますが、これから物書きはどうやって食べていくのか、出版はどう変わっていくのか、ということについての池澤さんの考えも少しうかがってみたいです。

池澤 僕の場合は、もう作家になってしまった人間だからいいんですよ。次の世代のことを考えなくてはならない。これから若い人が本を書いたとして、出版社や編集者なしで本を出した場合、その価値が認められるかどうかが問題なんです。僕はたまたま文学賞をもらって、編集者に育ててもらった。村上龍さんは、編集者に助けてもらったことは一切ないというけれど、僕は一つの作品を書くごとに、いまも編集者にいろいろと相談しています。

腕のいい編集者は、こちらが書いたものの欠点を、パッとすぐに指摘してくれる。僕はずいぶん長いこと小説を書いてきたから、自分ではそう下手な書き手だとは思わないけれど、それでも編集者の力を抜きにして仕事はできない。その役割を、電子出版がこれからも担保できるかどうか、ということが問題ですね。

自費出版で出された本の海の中に、出版社が出したコストの高い本がポツポツと混ざるような状態になったとき、それを誰が選別するのか。いまでさえ、本の最大の問題は選別にある。僕は毎日新聞で月に1本、週刊文春で5週間に1回の書評を、20年間ずっとやってきました。それは、誰かが本を選ばなければならないからです。

ありがたいことに、僕が自分の好みで選んだ本に対して、少ないけれど一定のファンがいてくれる。書評家は一種の人気商売なんですよ。池澤が褒めているから買ってみよう、といって本を読んだ人が、それで元がとれたと思ったら、次も僕の言うことを聞いてくれる。そういう人が一定の数だけいてくれて、はじめて書評という商売が成り立つ。いまはそうやって誰かが交通整理をしてやらないと手が回らないほどの本の量でしょう。

――紙の本でさえ、すでに年間の刊行点数が7〜8万点に及ぶ時代です。

池澤 そうした中に、作者が自分で作った電子書籍が出てきて、もしかしたらそれは大傑作なのかもしれないけれど、じゃあ、その大傑作を誰が見つけ出すのか、ということになる。そのためには、編集者から書評家までに至る、出版のトータルなシステムがあることは大事です。『楽しい終末』も、編集者なしでできた本ではありません。最初は「文學界」という雑誌に載せてくれて、単行本と文庫にしてくれた。ただ今回の場合、出版社へのお礼奉公はもう済んでいる気がします。

――かつて芥川賞の候補作が、大手出版社の出す文芸誌だけでなく、同人誌からも挙がっていた時代がありました。同じようなことが、電子出版された作品でも起きる可能性はあるでしょうか。

池澤 もしも選考委員の誰かが、これは本当にいい作品だから候補にしようと言ったら、いまだって候補作になるでしょう。ただ、選考委員も忙しいから、実際は電子出版されたものまで見ていられないでしょうが。

――電子メディアでデビューした作家が文学賞を取ったり、ベストセラーになったりすれば、紙の本と電子書籍の関係が大きく変わるかもしれません。

鷲尾和彦氏のモノクロ写真が美しい。

池澤 デジタルで出版された短編が芥川賞の候補になって、作家がその作品が印刷されることを断固拒否したりしたら、面白くなるかもしれない。ぼくは選考委員をもう辞めてしまいましたが、委員が「なんじゃこりゃ」などといいながら、タブレットで作品を読むという構図を想像すると楽しい(笑)。

小説のなかに写真や絵を引用するのは表現としてアリです。『トリストラム・シャンディ』(18世紀イギリスの小説家、ローレンス・スターンの作品)にだって、真っ黒なだけのページがある。

そういう遊び心みたいなものが、こんどは電子出版でしかできない仕掛けで、小説の中で使われるようなことが、これからは当然に起きてくるでしょう。そのときは芥川賞の一次選考をする文春の編集者もタブレットかディスプレイで読んで、作品として面白かったら、悔しくても候補作として認めなくちゃならない(笑)。

――最後になりますが、震災後にお書きになった『春を恨んだりはしない〜震災をめぐって考えたこと』という本も読ませて頂きました。こちらは紙の本ですが、鷲尾和彦さんの写真と池澤さんの文章という組み合わせで、今回電子書籍化された『楽しい終末』ともリンクしている気がしました。

池澤 そう、この二冊は底のほうでつながっていて、総論と各論のような関係にあるんです。

――今日はお忙しい中、ありがとうございました。

■関連記事
『本は、ひろがる』をBinBで刊行しました
村上龍氏が電子書籍の出版社G2010を設立
スウェーデン作家協会のオンデマンド出版サービス